時給480円→海外セレブ担当!「日本人ネイリスト」の波瀾万丈な人生 母を亡くし20代で単身スペインへ 異国で這い上がった彼女の生き方

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母に憧れ、美容学校へ進んだ。「美容の世界は女の世界。妬みもあるから覚悟しなさい」と言われたが、実際にはそうした問題もなく、器用さも手伝い成績はトップクラスだった。両親からは、「好きなことやりなさい」と自由に育てられ、ただただ素直に「かわいい」ものを楽しみながら生活していたら「超絶ポジティブ」な性格が形成された。また、1歳上の兄と小学生時代に続けた「礼に始まり礼に終わる」剣道のおかげで、体育会系の環境にも適応できるようになった。いつも根拠のない自信に満ちていたという。

しかし人生は予測不能だった。

「余命宣告を受けて、3週間後に母は亡くなりました。本当にサッと逝ってしまって。人生って儚いな……と、思いました」

憧れの母がいなくなって…

専門学校卒業後、沙弥香さんが就いたのは夢見たヘアメイクとは無縁の、オフィス事務。

経営者だった彼氏の会社に流されるように入社し、理解が追いつかないエクセル作業をする日々を送った。広告撮影を手伝えることもあったが、結局は社長(彼氏)が用意した形ばかりの専用デスクに戻る。母の死後の空虚さから、彼を頼り、彼から頼られることに安心していた。

プラチナカードを渡され「好きに使って」と言われる悠々自適な生活を送った。努力もせずお金が入ってくる暮らしの中、ある日「私、何やってるんだろう……」と自問した。

美容学校の同級生たちは、スタイリストデビューに向け奮闘する一方、自分はお茶出しと単純作業の毎日。「みんなをきれいにする仕事に就きたい」という夢は、日常の裏側に押しやられていた。

「あの頃の私は『超絶ポジティブ』とはまったく無縁でした」と沙弥香さんは苦笑する。

進むべき道が見えなくなり、心が沈みがちだった2005年。現実から逃避したい思いで、シドニーで美容師をしている友人を訪ね、一人旅に出ることにした。東京で就職し夢を追ってキラキラしている同級生たちに、自分の姿を見られるのが恥ずかしくて、逃げるように南へ向かった。

そこで、転機が訪れる。

「シドニーに住む友達の周りには、日本食レストランで見習いをしている若者などがいて、バリバリがんばっていました。それを見て『みんな生きてるな』と感じて。私も何かに一生懸命になりたい、と思いました」

そんな時に出会ったのが、友人のルームメイトだったイタリア人。ラテンで自由な雰囲気に魅了された。イタリアに行きたい!……とは思わず、なぜか同じラテンの国、スペインへ行こうと思った。「なんか呼ばれるものがあった」のだという。

そこからの行動は速かった。即座に留学準備に取りかかり、派遣の仕事で費用を貯め、彼氏からも離れることにした。母が残してくれた遺産があったことも、スペイン行きを決断できた大きな要因だった。

「けど、心が痛いんですよ。お母さんが一生懸命働いて残してくれたお金を、使っていいのかな、って。でもお母さんだったらきっと『絶対行きなさい』って私の背中押してくれるだろうな、と思いスペイン行きを決めました」

周囲に言わずに行ったスペイン

2006年3月、南スペインの古都グラナダへ静かに渡った。家族と親しい友人2人だけにしか告げず、こっそりと。

「挫折して早々に帰国することになれば恥ずかしいから」という思いから、自分を守るための予防線だった。

「学生時代にあった自信はどこに行ったの、っていうくらい自信がなくなっていました。語学は全然分からないし、銀行口座の開き方も、電気代の払い方も分からない。スーパーマリオの無敵星がなくなったような状態でした」

スペイン語も英語もほぼゼロからのスタート。語学学校の授業はすべてスペイン語で、何を教わっているのかさえ理解できない日々が続いた。周囲の生徒が順調にレベルアップしていく中、沙弥香さんだけが、初心者コースを何度も繰り返した。

「語学も技術もそうなんですけど、昨日と今日の違いってほとんど分からない。けど3カ月くらい経つと、成長しているのが見えてくるんです。その変化を感じ始めた頃から、徐々に楽しくなってきました。『自分成長してるな』って『ああ、生きてるな』って感じました」

25歳になった沙弥香さんは、学校帰りにグラナダの街を歩いた。久しぶりに見上げた空は青く、自然と笑みがこぼれた。

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