「山東京伝の引退を引き止めた」蔦屋重三郎の切実すぎる事情 蔦重に頼まれた京伝は撤回を決めた

山東京伝の挫折
江戸時代後期の戯作者・山東京伝(1761〜1816)。江戸深川の質屋の長男として生まれた京伝ですが、若くして、浮世絵に関心を持ち、浮世絵師・北尾重政に弟子入りします。
黄表紙の挿絵を描いていましたが、次第に黄表紙の執筆も行うようになり、黄表紙『御存商売物』(1782年)は大田南畝に認められ、『江戸生艶気樺焼』(1785年。版元は蔦屋重三郎)は人気作となりました。
しかし、そんな京伝にも、ちょっとした挫折がありました。その契機となったのが、黄表紙『黒白水鏡』(1789年)だったとされます。
同書の著者は、京伝ではなく、石部琴好という江戸本所の幕府御用商人でした。内容は、幕臣・佐野政言が田沼意知(意次の嫡男)を殿中において刺した事件を風刺した内容。その書籍に挿絵を描いていたのが、京伝だったのです。
『黒白水鏡』を書いた著者・石部は、江戸を追放となり、以後の消息は不明となります。そして、同書に挿絵を描いた京伝も連座し、罰金刑となるのです。
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