一度は袂をわかった喜多川歌麿とも復縁。大河ドラマ「べらぼう」主人公・蔦屋重三郎の死に際のカッコ良さとは?
苦境に立たされた蔦屋重三郎
江戸時代中期の出版界に彗星のごとく登場し、ヒット作を連発させてきた蔦屋重三郎。
しかし、松平定信による寛政の改革は、江戸の出版界に大きな打撃を与えました。大田南畝・恋川春町・朋誠堂喜三二は武士でありつつ、戯作道に精進していましたが、彼らは戯作活動の最前線から撤退。
寛政3年(1791)、蔦屋から刊行された山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され、京伝は手鎖50日という処罰を受けますが、重三郎も罰金を科されました(財産の半分を没収されたという説もあれば、それほど酷い罰金ではなかったという説もあります)。
弾圧の前年(1790)、蔦屋は吉原細見(吉原遊廓の案内書)1種、黄表紙6種、洒落本・咄本・読本・滑稽本をそれぞれ1種、狂歌本6種、その他4種の合計21種の書物を刊行していました。
しかし、弾圧の年(1791)になると、吉原細見1種、黄表紙4種、洒落本3種、狂歌本3種の合計11種に刊行点数が落ち込みます。
そして、寛政4年(1792)は、吉原細見2種、黄表紙4種、咄本1種、その他3種の合計10種という結果でした。
出版点数が増加したとされる寛政5年(1793)や寛政6年(1794)の出版内容は、過去作を改題して刊行しているとの指摘もあります(例えば、天明5年=1785年に刊行された山東京伝『江戸生艶気樺焼』を『江戸生浮気蒲焼』と改題して再出版)。これは、それまでの蔦屋には見られない傾向とされます。



















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