「山東京伝の引退を引き止めた」蔦屋重三郎の切実すぎる事情 蔦重に頼まれた京伝は撤回を決めた
さて、幕府は寛政2年(1790)5月、出版取締令を出しました。それは、時事問題をすぐに「一枚絵」などにして刊行することを禁止する。みだらなことを異説を取り混ぜて述べている新刊本は、厳重に取り締まる。好色な本は絶版とする。新刊本の奥書には、必ず、作者と版元の実名を入れること。
さらには、作者不明の書物を売買してはいけない。双紙絵本などで古代のことに装い、不束なることを創作することを禁じる。華美を尽くし、潤色を加え、高値に仕立ててはいけない。流言を仮名書き、写本などにして見料を取り、貸し出すことは禁じる。書物屋の相互の吟味(監督)を厳重にせよ、という厳しいものでした。
同年10月には、地本双紙問屋に対し、風俗を乱すようなみだらな書物を検閲せよとの町触れが出されています。
重三郎と京伝の「大きな危機」
その頃、京伝と蔦屋は、遊郭を題材とした洒落本『仕懸文庫』『錦之裏』『娼妓絹籭』の刊行話を進めていました。京伝は同年7月には原稿を書き上げ、重三郎はそれを受け取り、原稿料の一部を先払いしていたのです。
そうしたところに、前述の町触れが出ます。前掲の3作品を売り出してもいいかとの確認を行事(世話役)に取り、ゴーサインが出ていたのにもかかわらず、刊行後、重三郎と京伝は、奉行所から呼び出しを受けます。
そして、取り調べのうえ、重三郎は財産半分の没収、京伝は手鎖50日(前に組んだ両手に鉄製手錠をかけ、一定期間自宅で謹慎させる)という罰を受けるのでした(1791年3月)。行事2人も、軽追放の処分となります。この「危機」を重三郎は、どのように乗り越えるのでしょうか。
(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
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