「山東京伝の引退を引き止めた」蔦屋重三郎の切実すぎる事情 蔦重に頼まれた京伝は撤回を決めた
創作活動に関する徳川幕府からの弾圧は、京伝に衝撃を与え、一時、彼は、引退を考えたとのこと。
寛政3年(1791)、京伝は蔦屋から黄表紙『箱入娘面屋人魚』を刊行していますが、その冒頭には「まじめなる口上」として、版元の「蔦屋唐丸」(重三郎)からの挨拶文が記載されています(ちなみに、重三郎と思われる人物が手と膝を付いて、挨拶する絵が描かれています)。
そこには次のようにあります。
「先ずもって、私の見世(店)のこと、皆様の贔屓厚く、日増しに繁盛し、有り難き幸せにございます。さて、作者の京伝は、こう申しておりました。
只今まで、かりそめに、拙き戯作をしてご覧に入れてきたが、このような無益のことに、日月と筆紙を費やすことは、戯け(馬鹿)の至り。特に、昨年春には、悪しき容疑を受けたので、これを恥じ、当年よりは戯作を辞めると。私(重三郎)にもそう断りを入れてきたのです。
そうなると、ご贔屓厚い私の見世は、急に衰微してしまうので、是非是非、当年ばかりは執筆して欲しいと私は京伝に頼んだのです。京伝は、昔からの知音(知人)の頼みということで、今回執筆してくれました」と。
この「まじめなる口上」から、京伝が引退を表明していたことがわかります。特に、幕府から罰せられたことが、大きな要因となっていたことも同時に理解できます。
山東京伝はなぜ引退を撤回したのか?
京伝の引退を押し留めたのが、蔦屋重三郎でした。「京伝に引退されると、ご贔屓厚い私の見世は、急に衰微してしまう」というのは、お世辞でも何でもなく、切実なものだったと思われます。

幕府政治批判・風刺の黄表紙を蔦屋から刊行した人気戯作者・朋誠堂喜三二と恋川春町を失くした今、蔦屋の「大黒柱」は京伝だったと考えられるからです。一方、京伝としても、10年来の知り合いである重三郎から「是非、是非、当年ばかりは・・」と執筆を頼まれたら、断る訳にもいかなかったのでしょう。
寛政2年(1790)、つまり『箱入娘面屋人魚』刊行の前年、京伝は、扇屋の遊女だった菊園と結婚していました。「新妻との新婚生活を迎えた京伝の胸中に、暗雲が拡がり始めた戯作生活を回避する気持ちが湧いたとしても不思議ではない」(松木寛『蔦屋重三郎』講談社、2002年)との見解があります。
うなずくべき見解ではありますが、その後、京伝は旺盛な創作活動を継続していることを考えれば、私は、新妻との結婚が、引退表明の撤回の理由ではないかとも推測しています。生活していくためには、先立つ物が必要だからです。
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