社会学者のジョック・ヤングのいう「自制と犠牲の経験」である(『後期近代の眩暈 排除から過剰包摂へ』木下ちがや・中村好孝・丸山真央訳、青土社)。「努力を強いられる」社会における「報われなさ」と言い換えられるだろう。ヤングはいう。「自制と犠牲の経験こそが、素朴な不満(不公平だという感覚)を復讐心に転化させる」のだと。
悪夢としか言いようのない現下の経済状況と暗い展望しか描けない世相は、ますます人々を最下層に転落しないための自転車操業のごとき「自制と犠牲の経験」へと追いやることだろう。この場合、努力は成功をもたらすものなどではなく、それがなければ生き残ることすらできない血のにじむ労苦にならざるを得なくなる。
政府の救済策も、遅すぎた
就職氷河期世代はなおさらである。
大手企業を中心に初任給の大幅アップがニュースのトピックになっているが、若年層に比べて賃上げが進まない中高年層には、就職氷河期に就職して低い初任給からスタートした人々や、非正規雇用を選択するしかなかった人々が多く含まれている。
政府による本格的な救済策が始まったのは2019年になってからであり、遅きに失した感しかなく、実効性に疑問が残るものだった。政府は当初、氷河期世代を「人生再設計第一世代」というグロテスクな新名称で呼び直す無神経さを示した。「失われている」という認識どころか存在そのものを「忘れていた」のだろう。
現在、先の見えない生活苦にあえぐ多くの人々も、おそらく氷河期世代と同様に「失われる」可能性をひしひしと感じているとみていい。結局のところ、「失われた30年」を迎えても、むしろ状況はどんどんひどくなるばかりで、生活に対する不安だけが増大していく。
だからこそ、わたしたちは「懲罰的責任像」に囚われることなく、あるべき社会の姿を構想していく必要があるのだ。
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