
ライバーの女性が刺殺された事件の続報が出るにつれて、借金を踏み倒された容疑者の男性に対する同情論のようなものが盛り上がってきている。曰く「消費者金融にまで借りさせるのが悪い」「裁判で負けたのに支払わなかったので自業自得」等々……。
直接的な原因は、金銭トラブルであることは明白になってきているが、2人が出会うきっかけとなり、その関係の進展を促進したアテンション・エコノミー(注意経済)と、そこに内在する感情体験の商品化が少なからず影を落としていることはもっと注目されるべきだろう。
驚くべきことに、個人同士の問題で片付けることができないほどに影響力を持つようになったアテンション・エコノミーの最先端に位置するSNSなどのプラットフォームの魔力について、2人は程度の差こそあれ鈍感に見えたからである。
注意や関心を金に換える「アテンション・エコノミー」
アテンション・エコノミー(注意経済)とは、一言で言えば、人々の注意や関心を金に換える新しい潮流のことだ。心理学者で経済学者のハーバート・A・サイモンが1970年代に情報過多の世界における注意力の不足について言及し、初めて理論化された。
1997年に社会学者のマイケル・ゴールドハーバーがサイモンの説を引き継ぎ、「アテンション・エコノミー」という概念を提唱した。この新しい経済下では、注目自体が大きな価値を持ち、物質的な取引などを凌駕すると予見した。
令和に入ってその傾向は加速している。インターネットの生態系がSNSに偏重していく中で、誰もが無料で利用できるプラットフォームで一攫千金を狙えるフェーズに突入した。インフルエンサーのような発信者になることが夢ではなくなったのだ。
発信者は、人々の注意や関心を集めることに腐心し、そこにひとつの「親密性」という幻想を作り上げる。プラットフォーマーは、その「親密性」を換金するための多様なアイテム、広告などを取り揃えることに傾倒する(図は、ネットワーク中立性の提唱者として知られる法学者のティム・ウーの論文“Blind Spot: The Attention Economy and the Law/Antitrust Law Journal vol.82〈2019〉”を参考に作成した)。

「推し活」における「推し」は、まさにこの発信者に相当するところがある。社会学者の山田昌弘は、近著で「推し活」ブームをリアルな恋愛や家族が希少品となった時代の「疑似恋愛」「疑似家族」という文脈で論じたが、それは課金される「親密性」なのだ。
山田は、「日本では、現実の世界では、格差が埋まらず、努力が報われるという体験ができない代わりに、バーチャルの世界に浸ることによって、現実に存在する経済格差や家族格差をみないようにしているのではないか」と述べ、「疑似恋愛」「疑似家族」を「親密関係をリアルな家族(配偶者や子ども)ではないものに求めるもの」と定義している(以上、『希望格差社会、それから 幸福に衰退する国の20年』東洋経済新報社)。
ちなみにここでの「疑似」という言葉は、リアルな関係で体験されてきた親密関係に似せて作られているという意味であり、優劣などの価値判断は含まれていない。このような構図を踏まえると、実に多くの「親密性ビジネス」が動画配信プラットフォームを介して広く展開されていることに気付く。
「誰かの役に立っている実感」
そして、それらのニーズの深層には、おそらくもっと根源的な承認への欲求が潜んでいる。それは「誰かの役に立っている実感」と言っていい。むろん、その「誰か」は理想としては自分が好意を持つ相手になるだろう。その感情体験こそが価値の本質といえる。
これは社会学者のジグムント・バウマンの言葉を借りれば、「自律性の発揮」という観点から検討することができる。バウマンは、「偶像を中心とするコミュニティは、トリックを使って『コミュニティ』を変える。すなわちそれを、個人の選択の自由を脅かす恐るべき敵から、個人の自律性を発揮したり、(その自律性が本物か偽物かはともかく)再確認したりする場に変える」と述べた(『コミュニティ 安全と自由の戦場』奥井智之訳、ちくま学芸文庫)。
この「自律性が本物か偽物かはともかく」というくだりがある意味で非常に厄介なのである。バウマンが論じたのは「偶像中心のコミュニティ」だが、一対一の関係性においてもこの指摘が大いに当てはまる。仮に粉飾された「親密性」であったとしても、それがリアルに感じられるような信頼が生じていれば、結果的に感情体験が得られるからだ。
実際、容疑者は生活に困っていると訴えるライバーの女性を金銭面でサポートするという「親しい間柄ではよくある情緒的な関係」を体験していた。ここではお金は実質的に感情のフローなのであり、「特別な関係にある」と思えることと本人への感謝がリターンになっている。
だが、本物か偽物かという先の問いに戻れば、同じ感情体験を得られるよう「親密性」を継続できれば、という留保がつく。そのため、さまざまなコミュニケーション上の工夫が必須となる。頂き女子の教祖が自身のマニュアルでその極意を説いていたことはあまりに皮肉な話ではある。
ライバーの女性は、ひょっとすると、人気取りの投げ銭と直接お金を得ることの境目を、どこかの時点でそれほど意識しなくなってしまった可能性があり得る。また、プラットフォームにおける評価と収益で成功しているという感覚が、それを後押ししたかもしれない。
一方、容疑者の側は、「親密性ビジネス」が人々の注意や関心を効果的に獲得するための演出=感情体験の提供によって成り立つシビアなもので、キャラクターも含めて虚構に過ぎないということに無頓着なまま「沼る」ことになったのだろう。
「何かが無料なら、あなた自身がその商品です」――これはアテンション・エコノミーの内実をキャッチーに言い表した有名なネットミームである。しかし、そこでいったい何が売り買いされているかを正確に認識することは困難だ。なぜなら、そこには前述のような愛着や虚栄心といったセンシティブな自尊感情が関わってくるからである。
アテンション・エコノミーは、各々の発信者の優位性を確保するために自分自身を商品としてブラッシュアップすることを求めるだけでなく、フォロワーをはじめとする人々の感情を積極的に刺激して、継続的な動員につなげることを促す。
片や、フォロワーは、熾烈な競争の中で「推し」のライバーとの「親密性」を強めるために進んで課金し、優位性に貢献するゲームにのめり込む。ここでの評価は、承認と一体化したものであり、場を盛り上げる高揚も伴う。
プラットフォーマーは、人々の神経系の働きを徹底的に学習した上で、最も効率的に利益を最大化できる仕掛けや機能を実装していく。この三者からなるアテンション・エコノミーのトライアドが異様な熱量を生み出すのである。
前出のバウマンが「偶像中心のコミュニティ」は「本物のコミュニティなしに『コミュニティ経験』を生み出す」「お祭り気分で楽しく消費される限りは、(略)『本物』と区別することが難しい」と言っているのと同じ現象が起こっているのだ。
つまり、今回の事件は、アテンション・エコノミーに駆動された「親密性ビジネス」の負の側面について、送り手と受け手の双方が無自覚なまま最悪の結末を迎えた例といえるだろう。これはプラットフォーマーを一律に規制すれば済むような話ではまったくない。
そもそも「人間関係で生じる感情体験が売り買いされる」需要が増大するのは、現実においてそれが著しく欠乏しているからに他ならない。今こそ、この底の見えない欠乏とアテンション・エコノミーの実像を凝視すべきなのではないだろうか。


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