「僕はもう62歳ですが、見習い募集の広告を見て応募しました。一応、東京すしアカデミーというところで、ひと通りのことは勉強してきたつもりですが、お店によってやり方は全部違うと思います。一生懸命がんばりますので、雇っていただけますでしょうか」
嘘偽りのない気持ちを、年下の大将や店長に伝える。とても新鮮な気持ちだったという。
現場ではやっぱり見習い。わからないことばかりだった。失敗も多い。それでも叱られるときは年長という部分で少し割引してくれたのかなと、思った。
「若い衆には殴るような勢いで、バカ野郎! と怒鳴ったかもしれませんが、僕は『河野さん、それは困りますよ。何度言ったらわかるんですか?』という言葉使いで注意してくれました。江戸前の仕込みを習うときは、『ちょっと酢が甘い』『漬け込みはもうちょっと長く』とか、さじ加減が難しかったですね。正解は教科書の味ではなく、店の味。大将のお手本を見ながら、必死でメモを取っていました」
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それまでの社会経験が必ずどこかで生きる
広告マンとして38年、その経験で何か役に立ったことはあったかと問うと、河野さんは「何もないね」と即答して大笑い。「広告代理店というのは技術じゃなくて、しゃべりだから」と口パクの手振りをする。
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「相手に応じて気の利いた話はするけど、それを技術と言えるだろうか」と言う河野さん。それは一理あるだろうし、謙遜でもあろう。寿司割烹時代にカウンターで握らせてもらったとき、ひと回り年下の大将に「河野さんはお客さんの立場や気持ちをよくわかっているよね」と太鼓判を押された。
広告マン時代、河野さんは接待をするときも受けるときも、人と会って楽しい場にしたりお酒を飲んだりすることは好きだったし、接待といえどストレスになることはなかったという。人が喜んでくれることはうれしい。
寿司職人としてはゼロからのスタートだが、大将はそういう河野さんの人と関わってきた社会経験をきちんと評価していたのだろう。シニア世代の就業は、それまでの社会経験が必ずどこかで生きるのだ。
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