「思想家」ルソーは本業不明の「インフルエンサー」 わかっちゃいるけどやめられない「矛盾」の人生

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どうしても有名になりたかった彼は最初にアカデミーでの発表がうまくいかなかった後、パリの知識人や富裕層と交流を温め、その伝手で富裕層の秘書におさまっていた。

当時の秘書は富裕層の暮らしに彩りを与える芸術家のような役割だった。作曲したり、戯曲をつくったりして、ルソーの言うところの人を堕落させる営みを食い扶持にしていたのに、「そんなことしているとダメになる」と切り捨てたのだ。

教育論を書きながら、我が子を孤児院に送り込む

この矛盾こそがルソーの面白いところだ。彼の生涯につきまとうのが「矛盾」の2文字なのだ。

ルソーは後年、教育論『エミール』を記すが、ここでも「おまえがいうなよ」と突っ込みたくなる主張をつづる。

例えば、「父としての義務をはたすことができない人には父になる権利はない」と理想の父親像を論じているのだが、ルソー自身は自分の5人の子どもを5人とも孤児院に送り込んでいる。

当時のフランスは人口が爆発的に増加したため新生児の4割が孤児院に捨てられたとの指摘もあるが、「教育論を語る人間が子ども捨てるなよ」と誰もが突っ込みたくなるはずだ。

ルソーは晩年になり、意見が衝突していたヴォルテールに「あいつ、あんなに偉そうなこと語っているけど、子ども全員捨てたんだぜ」と暴露される。

ルソーに同情するとすれば、第1子や第2子が生まれた頃、彼はいわばミュージシャン志望のほぼ無職だった。

彼は後に「みんながそうしているからそうした」、「子どもにも自分にも最善の方法だと思った」、「私も孤児院で育てられたかった」と弁解している。

「何言っているんだよ、大丈夫かよ」と突っ込みたくなるが、ルソーは本気で「孤児院、最高」と思っていたとの指摘もある。ちなみに、有名になってから生まれた子どもも孤児院に送られている。

不惑近くまで無職でいられた「人たらし力」

ルソーのデビューは非常に遅い。懸賞論文で受賞し、一躍時の人になったとき彼は40歳手前だった。最初にアカデミーで発表したときですら、アラサーだ。それだけに、彼がそれまで何をしていたか気になるところだが、もちろんまともに働いていたわけではない。特に身分が高い家の出身でもないのに、プラプラしていたのだ。

1712年、ルソーはジュネーブに生まれる。父親は時計職人、母親はルソーの生後間もなく亡くなっている。父親が本を読むのが好きだったこともあり、幼い頃から本に親しんだことがルソーの将来に影響したのだろう。

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