「池田大作とは何者だった?」宗教界の巨人の実像 極秘資料からたどる「創価学会」の黒歴史①
仲介者は日本大学で会頭を務める古田重二良だった。古田は日大のマンモス化に道を開いた教育界の大物で、同時に保守寄りのフィクサーとして立正佼成会など新宗教団体を自民党支持に導こうと三年前に「宗教センター」なる社団法人を設立し理事長に収まっていた。
臨終の時を日大病院で迎えるなど、戸田時代から創価学会は何かと日大との縁が深い。そんななか、具体的経緯は必ずしも詳らかでないものの、古田は宿敵である立正佼成会とのパイプもあり、仲介者として適任だったのだろう。
年が明けた一月、学会と版元、著者との間では和解文書が交わされた。立正佼成会の影響下にあった新宗連が書籍を回収し、著者側の謝罪念書とともに古田にそれらを引き渡すとの内容だったとされる。
後年、植村はかわりに学会側から「邪宗攻撃」を行わないとの確約をとったと主張している。古田に引き渡された大量の書籍は焼却されたとも裁断されたとも諸説あるが、いずれにせよこの世からすっと消えて無くなったのである。
これら裏の言論戦が活発になるなか、創価学会内で隠然たる力を持ちつつあったのが弁護士グループだった。『これが創価学会だ』をめぐる出版禁止仮処分で申立書に名を連ねた学会側弁護士は三人いた。
その一人はまだ三十歳そこそこの駆け出し弁護士だったが、学会では彗星の如く現れた新進気鋭の若手幹部だった。その人物こそが「山友」こと山崎正友である。
トラブルシューター・山崎の暗躍
この後、池田の信認厚い山崎は大石寺の地元・富士宮市への懐柔工作などに携わることで当時の法主・日達に食い込み、学会内部では天敵である共産党との相互不可侵を目論んだ創共協定の極秘交渉に携わるなどし、立場を強めた。
が、トラブルシューターである山崎は、逆に創価学会と宗門との対立を激化させるため離間工作に走り、それによって自らの金銭欲と出世欲を実現しようとの悪魔的な行為に手を染めていくこととなる――。
(敬称略)
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