池田大作「専横」の起点になった山崎正友事件 極秘資料からたどる「創価学会」の黒歴史②

(写真:アフロ)
創価学会と故・池田大作名誉会長(2023年死去)の秘められた歴史が書かれているのが、高橋篤史著『創価学会秘録』だ。
本書は、極めて限られた関係者しか見られなかった2つの秘密資料をベースに書かれている。1つは、創価学会自らがまとめた「総合経過年表」と題する内部資料であり、もう1つは宗門(日蓮正宗)の高僧が書き残した通称「河辺メモ」と呼ばれる備忘録だ。
前者は、かつての中枢幹部にして弁護士、そして創価学会史上、最悪の反逆者となった山崎正友(故人)への対策資料として作られたものだ。
後者は日蓮正宗の総本山・大石寺(静岡県富士宮市)の第67世法主である阿部日顕(故人)の懐刀とされた有力僧侶、河辺慈篤(故人)による手書きの日記風備忘録だ。
この2つの資料に加え、筆者が公刊資料から裁判記録まで幅広く渉猟し、創価学会と池田名誉会長の実像に迫ったのが本書である。そのエッセンスを3回に分けて紹介する。
第1回は『「池田大作とは何者だった?」宗教界の巨人の実像』。そして第2回の本稿は出版妨害事件で活躍した山崎正友と池田大作との関係について記す。
第1回は『「池田大作とは何者だった?」宗教界の巨人の実像』。そして第2回の本稿は出版妨害事件で活躍した山崎正友と池田大作との関係について記す。
山崎の暴走が池田の人間不信を生んだ
山崎正友による秘密裏の離間工作により、創価学会と総本山・大石寺(=宗門)との対立は1977年以降激化した。
翌年1月、法主・日達は学会に批判的な活動家僧侶160人と面談、その場で「ある信者からの手紙」なる学会批判文書が読み上げられる。その原稿を書いて日達に届けたのは学会サイドで動いていたはずの山崎だった。
以下、「第8章 師子身中の虫」から引用する。
四日後、竹入義勝(公明党委員長)の実弟で埼玉の責任者を務める央迪からこの話を伝え聞いた北条(浩理事長)は、ただちに録音テープを入手するよう組織に指示を出す。
二月十一日になりそれは竹岡誠治によって秋谷(栄之助副会長)にもたらされた。富士宮問題の調査に現地派遣された後、竹岡は外郭企業である「第三文明社」の社員となり、山崎のもとを離れていた。さらにその頃は本部職員に転じ組織センターの仕事に就いていた。
同じ日、秋谷は東京・向島の常泉寺に行き、教学部長とともにそこの住職を兼務する阿部信雄(後の法主・日顕)と会う。その時、阿部から打ち明けられた話は驚くべきものだった。
それは二年前の年の瀬、まだ阿部が京都市内の平安寺で住職を務めていた頃のことだ。東京から(日達の側近で山崎と近い僧侶)浜中和道がやって来て、そして耳を疑うような要請がなされた。「反学会運動の先頭に立ってくれ」というのである。
しかも浜中はこうも言った。「自分達には弁護士の参謀がついている」という。阿部が「山崎か」と尋ねたところ、浜中からは「そうだ」と返ってきた。それから一カ月後、阿部のもとに山崎から電話が入る。
「先日の件ですが」と切り出された阿部は「何の事だ」と鎌をかけてみた。すると、電話はそのまま切れたという。
録音テープを入手した翌日、池田は北条、秋谷とともに関係修復のため大石寺に向かう。その車中、秋谷はある信者からの手紙をテープ起こしして分析した結果、まず間違いなく山崎によるものと見られることや、阿部から聞いた山崎の不審な動きについて報告した。
(中略)
トピックボードAD
有料会員限定記事
政治・経済の人気記事
無料会員登録はこちら
ログインはこちら