リーダーとは孤独なものである、とよく言われる。
創価学会という日本最大の新宗教団体に長く、唯一のカリスマとして君臨した池田大作名誉会長が今年2023年11月15日に死去したが、いま振り返ってみれば、その生涯は何とも孤独なものではなかったのではないか。
彼の人生を揶揄しているのではない。そもそも国家だろうと企業だろうと宗教団体であろうと、リーダーとは孤独なものなのであり、池田氏もまたその例に漏れなかったのではないかという、ただそれだけのことである。
池田氏が創価学会の第3代会長に就任したのは1960年5月3日、若干32歳のころであった。「第3代会長」である。誤解している人もいるが、創価学会は池田氏がつくった教団ではなく、よって彼は「教祖」ではない。創価学会を1930年に立ち上げたのは牧口常三郎という教育者で、第2代会長は戸田城聖という実業家肌の、非常に戦闘的な人物だった。
突き進んだ「政教一致路線」
戸田時代の創価学会、すなわち池田氏がトップを引き継いだ時点の創価学会の組織目標は「一閻浮提広宣流布、国立戒壇建立」というものだった。「一閻浮提」とはこの世の中全体のこと、「広宣流布」とは教えを広く布教していくこと。つまり「一閻浮提広宣流布」とは「世界全人類に布教する」ということである。
それが貫徹されれば世界中の一般市民はもとより政治家や王族といったような人たちまで全員が創価学会員(正確には当時の上部団体・日蓮正宗の信者)になるわけだから、創価学会として世界を統率している状態を目指した。そういうことの結果に、自分たちの影響下に置いた政治権力に自分たちの宗教施設を造らせること、これが「国立戒壇建立」である。
池田氏によって公明党が設立されたのは1964年のことだが、創価学会の政界進出自体は戸田氏によって1950年代から始められていた。なぜ会員(信者)を各種の選挙に立候補させているのかということについて、生前の戸田氏は「それは国立戒壇を造るためだ」とはっきり答えている。
戸田氏の時代から始まった、創価学会の強引な折伏(布教)活動なども、言ってみれば、当時の彼らの「政教一致路線」を実現させるためだった。
ところが、戸田時代の流れの創価学会を引き継いだ池田氏は、1970年前後に大変な痛棒を食らうことになる。
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