1970年以降の創価学会は、宗教的価値観を前面に出して活動するというより、「世界に評価されるリベラル文化人たる池田大作先生」のカリスマ性で組織をまとめ、公明党もまた、「宗教政党」として存在感を出すのではなく、微温的リベラル政党として一般社会に浸透する努力のほうを優先させてきたきらいがある。
戸田時代に顕著だった戦闘性は薄れて穏健化し、今では過激な折伏などほとんど行われていない。かつて忌避していた町内会活動や神社のお祭りなどにも、今の創価学会員は進んで顔を出している。
近年の池田氏、創価学会の姿に対して、創価学会に批判的な立場の宗教団体は「本来の宗教精神を忘却した、単なる『池田教』である」といった声が出ていた。他にも、自身のカリスマ性を高めるために海外からの勲章類をもらい集める池田氏の姿を、「宗教家とは呼びえぬ俗物」と指弾する声が多々あった。
「過激な教団」を社会に適合させるために
そうした批判には的を射た部分もあったが、池田氏の立場に立って考えれば、自分がつくったわけでもない「過激な教団」を、どうにかして戦後社会に適合できるようソフィステケートしなければならなかったのではないか。
企業社会においても、道化的にメディアへの露出を高めて自身を「名物経営者」に仕立てることで企業の存在感を高めようとする企業トップは珍しくない。池田氏もまた道化を演じながら、創価学会を日本最大の宗教団体としてまとめ、育て上げた人物だったのかもしれないのである。
もちろん池田氏の本心は、もはや永遠にわからない。リーダーは、やはり孤独なものなのである。
ところで、池田氏の手抜かりは、創価学会の内部に自身の後継者をつくれなかったことに尽きるだろう。彼のカリスマ性で率いられてきた教団は、彼が公の場から姿を消した2010年以降、明らかに衰えを見せている。
2世、3世を中心とする若い学会員は、池田氏と直接会ったことのない人々が大半を占めており、親たちから「池田先生のためにがんばりましょう」などと言われてもピンとこない。
今後の公明党に明るい材料はほとんどない。たとえば現行制度の国政選挙において、公明党が最も多くの比例票を獲得したのは2005年の衆議院議員選挙時で、実に898万票を集めた。しかし昨年の参院選で集まったのは618万票。この十数年で、公明党支持者は300万人近くがどこかへ消えてしまったのである。
また、現状で創価学会員の多数を占めるようになった2世、3世会員は1世ほど熱心には活動しない傾向があり、古参学会員などからは「もう組織の半分くらいは幽霊会員と化しているのではないか」といった声も聞かれる。
それもまた、池田氏の孤独が生んだ現象なのだとしたら、創価学会の現在は「リーダーとは何か」を考える、一つの重要な教訓を社会に与えてくれているのかもしれない。
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