なるほど、そうかもしれないと、それから数回心掛けたが、どうも反省しようとする気持ちが弱かったのか、若い頃の私は、試みても試みても、5分も持たず、寝入ってしまい、反省どころか、夢のなかを漂う始末であった。ようやく、この頃、床に入ると、暫く、今日一日の出来事を思い巡らすことが出来るようになったが、正直、遅きに失していると認めざるを得ない。
ところで、松下の反省とは、よくないことを思い起こし、自分の失敗の対策、あるいは心改めることばかりをいうのではない。よくないことはもちろんのこと、よいことも振り返り、次に生かす方法、対応、態度を考える、思うということである。それが松下の言う「反省」と言うことである。なにをしても反省せず、あれはよかったのか、悪かったのかということを思いもしないということでは、せっかくの体験が生きた体験にならない。それを確かめる。それによって、体験が生きるのである。松下の「反省」は、さまざまに及ぶ。
吾日三省吾身
『論語』に「吾日三省吾身」とある。ここから「三省堂」という書店名が出たという。それはともかく、「吾、日に三つのわが身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。伝えられて習わざるか」の孔子の高弟、曽子の言葉はあまりにも有名。ここでは人、友人、勉強という三つに絞られているが、反省は、これに限られることはない。松下の言うように、一日を振り返り、いろいろなことを思い起こすべきであろう。
とにかく、ひとつの出来事に考えをめぐらし、自分の大切な蓄積としていかなければ、また、同じことを繰り返す。そこに成長も向上も生まれない。そして、同じ間違えを繰り返すことができるほど、人生は長くないことは知っておいたほうがいいだろう。
愚かなことは、間違ったことをするのではなく、同じ間違いを繰り返すということである。また、たとえ、うまくいったことも、同じことを繰り返していけば、さらに大きな成功も得られないばかりか、逆に、その成功が、自己破滅の道を歩み始め、失敗の原因と化してしまうことにもなる。
反省してみて、いいことを覚えておいて、さらによくする工夫をして、次もやってみたらいい。好ましくないことは、次には改善してやってみたらいい。そこに、人間としての知恵がある。人間の成長というものがあるのではないだろうか。
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