結局のところ「信長」は革命児だったのか、否か 時代により揺れ動く評価と家臣たちの不遇

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神仏論のあるなしという話と、大きな意味での怨霊・祟りのあるなしという話というのは、今の時代とリンクさせるとすればそのあたりなのかなと。あとテレビの影響力の低下も大きいのかなと思います。既存のメディアの影響力が下がってきているのは間違いない。

メディアの寵児のように現れる人は、もちろんかなり特異なパーソナリティなんでしょうが、やはり時代性を背負っている。時代の精神みたいなものからの影響から自由ではない。それは、信長の精神的な背景と重ねることができると思います。

信長の合理性が抱えていた「悲しきジレンマ」

垣根 信長に足りないのは、シンプルに共感性みたいなものではないですかね。『信長の原理』という僕の小説のなかで、象徴的にそれを描こうとしたんだけど、社会を機能的に進めようとする、合理的に進めようとすればするほど、実際には合理的にはならないんですよ。

だからパレートの法則を使って、あえて信長が滅んでいくような話にしたんですけど。合理的な判断が正しかったとしても、それで世間がついてくるわけではないというのはすごく思っていて。

信長のなかでそういう合理的な判断があったと仮定しましょう。それに対する戦いでもあったというのが通説だし、僕もそういう部分はあったと思います。なぜこれはこうじゃなくてはいけないのか、という疑問と反発ですよね。でも人間、そうは合理的になれない。

たとえば株取引の世界では、いまはAIとかディープラーニングが進んでいて、高速でAIが売り買いしているんですよ。でも、完璧とされるようなプログラミングがなされたセッティングがあったとしても、やっぱり株価の暴落はくるし、ヘッジファンドはその性質上インデックスファンドという平均値を上回ってくるはずなのにそうはならない。

なぜか? やっぱり基本的に人間は合理的ではないからでしょう。合理性を求められても、理屈のうえでは確かに正しいのだとしても、やっぱりどこかついていけない。だからAIをいくら株取引に持ち込んでも、最終的にはおそらくインデックスファンドという何の変哲もない時価総額加重平均に収斂(しゅうれん)していくでしょう。

そういう意味で、信長の悲しさ(?)というのはいつも感じます。

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