「60歳で教師」になった女性が2年間で得た気付き 教師に憧れながら企業就職、からの伏線回収
就職活動のときにリクルート志望の同級生の付き添いで、同社勤務のバレー部の先輩に会うことに。先輩から「リクルートは男女平等で、1年目から仕事を任せてもらえる。面白い人が多く刺激的な職場だ。先に社会を経験してから、教員になるという考え方もあるのではないか」と聞いて心が揺れたという。
「教育実習で子どもに教えることの楽しさを感じながら、自分には何か足りないものもあるとも感じていました。民間企業で自分を試してみて、社会ではどんなことが必要になるのかを体感してから、教師になるという順番もあるのでは、と」
有森裕子さんと出会い「ファン1号」に
リクルート入社後は営業を経て、人事部の採用担当に。このとき出会ったのが、マラソンランナーの有森裕子さん。故・小出監督に陸上部入部を志願し、実績のなさから何度も断られるも粘り強く交渉を重ね入部を許された人物だった。有森さんの入社時の挨拶を小川さんは今でも覚えているという。
「私はこのまま“ただ者”では終わりたくない。4年後のオリンピックに出て、必ず結果を出します。まずは2年、死ぬ気で頑張ってみて、芽が出なければ故郷に帰ります」
この言葉に心を打たれた小川さんは、「ファン1号になる」と約束し、国内、海外問わず試合を追いかけて応援。その後、有森さんは自身の宣言通り、入社2年後にマラソンの日本最高記録を更新。初出場となった1992年のバルセロナオリンピックで銀メダルを獲得する。
一方、当時の小川さんは30歳。人事として採用面では結果を出してきたが、論理的に全体の戦略を考えることが苦手だったことから、ゼネラリストとしての管理職の道はないと退職を考えていたという。
そんなときに本の情報誌『ダ・ヴィンチ』が創刊。ミステリー、ホラーの分野が得意なことをアピールして、編集部に異動がかなったのが32歳。会いたかった作家に取材し、手応えのある記事を書くこともできたが、編集スキルのなさから企画はボツになることも少なくなく、他部署への異動を打診され退職を決断。フリーの編集・ライターとなる。
「せっかくフリーになったのだから、お金になる仕事より、まずは自分が一番やりたいことをやったほうがいい」という友人の助言を受け、スポーツの取材をすることに。フリーでも取材のアポイントのとりやすい、これからブレイクしそうな若手のアスリートを中心に「1競技、1人」と決め、狭く深く取材をしていった。自腹で60回以上、世界のあちこちまで、追いかけていた選手たちの試合を見に行った。
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