「60歳で教師」になった女性が2年間で得た気付き 教師に憧れながら企業就職、からの伏線回収
「例えば、故事成語の授業では、簡単な脚本を用意し、子どもたちに衣装を身につけて演じてもらったり、飲料メーカーの俳句コンテストにみんなで応募したり。自身も国語を教えることで、改めて言葉の成り立ちを再認識し、文学作品を読み返しています。学ぶことの楽しさを感じられる仕事だなと思います」
実は小川さん、教師になることは子どもの頃からの夢で、そのつもりで大学にも行っている。それがなぜここまで「遠回り」することになったのか。それにはまず、子ども時代まで時計の針を巻き戻す必要がある。
本とスポーツが大好きだった子ども時代
子どもの頃から本が好きだった。「特にSFやミステリーが好きで、毎週、図書館に行っては片っ端から本を借りて読んでいました。家には親が、苦しい家計から無理して揃えてくれた文学全集や百科事典があって、暇さえあれば本を読む日々を過ごしていました」。
その一方で、スポーツを見るのにも熱中した。1972年、10歳のときに開催された札幌・ミュンヘンオリンピックを夢中になってテレビ観戦。スポーツアニメにもハマった。「当時の私は病弱だったこともあり、運動が苦手で、体育の成績はいつも2でした。自分ができないからこそ、スポーツができる人への憧れが強くありました」。
中学校1年生で教師になろうと思ったきっかけは、担任の先生との出会いだった。
「その先生は、厳しさの中に愛情がある先生でした。授業も生徒主体の工夫を凝らした内容で、学級新聞や4コマ漫画を作ったり、創作劇を演じたり、歴史探索ツアーを自分たちで企画したりするなかで、学ぶことの楽しさを教えてくれました。
また、当時の私は家庭に少し問題があったこともあり、学級委員を務めるような積極的な面がある一方で、人間関係にどこか息苦しさを感じていました。そんな内に秘めた孤独を理解し、事あるごとに支えてくれた先生のおかげで、社会を生き抜く土台ができたのです」
苦手ながらも運動部にも憧れ、中学時代は卓球部に所属し、高校時代は弓道部のキャプテンを務めた。卒業後は、教師を志して横浜国立大学教育学部に進学。ところが、バレー部に入部したことが、その後の運命を変えることとなる。
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