立川談志「殺しはしませんから」弟子の親に説く訳 「伝説の落語家に弟子入り」とはこういうことだ
要するに「一般社会の上司・部下」が「対称性のあるコミュニケーションが前提」だとすれば、徒弟制度における「師匠と弟子」とは、あくまでも「非対称な関係」だからなのです。
師匠の怒りは当然です。
「死ぬほど憧れた俺と一緒という、最高の空間と時間を与えているはずなのに、居眠りするとは言語道断だ」という師匠の理屈に対して、弟子は「心底詫びてなんとか許しを得る」しかないのです。
対称性が基本の間柄でしたらば、年数の違いはあれ、どこまでもフィフティ・フィフティでしょうが、徒弟制度での「持たざるもの=前座」はただひたすら非対称性の中に置かれ、師匠の機嫌を保ち、快適にするしかないのです。それが前座の仕事なのです。
つまり、以上のような非対称性を芸においてクリアし、対称性の関係に改善することを称して「修業」と呼ぶのであり、それが師匠と弟子との間で無条件に成立および共有されている感覚こそが、「徒弟制度」の大前提なのです。
弟子入り、徒弟制度などこれらの込み入ったややこしい概念を談志は、「俺はお前にここにいてくれと頼んだわけではない」という一言で言ってのけたものでした。
落語界の「徒弟制度」で培った気づかいの本質
通常の前座期間の2倍以上かかってしまった不器用な私は、いつも談志に言われていた言葉でした。「惚れた弱み」を一方的に抱かざるをえなかったのが弟子の辛いところでもありました。
要するに、徒弟制度とは、一般社会とはまったく異なる「気づかい」が徹底されているコミュニティなのです。
だからこそ、かようなコミュニティで生き抜くための「気づかいの本質」に気づけば、一般社会においても、ものすごいアドバンテージになるのではないか。それこそが、『狂気の気づかい』という本を書くにあたってのいちばんの動機でした。
談志は、壮年期の元気がいい頃、口癖のように「狂気と冒険と」と言っていました。すべてを変えるのは、「狂気」からです。
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