しかし、そのような状況で受験生を入学させていいものだろうか。
そもそも「学力の三要素」では、基礎学力において「基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して」とあるように、これらの基礎的な知識、技能なくして「課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力」は育めないのである。
以前の記事でも書いたが、総合型選抜であっても学校推薦型選抜であっても学力を問うように文科省は求めている。
少なくとも大学入学共通テストまたは小論文等、プレゼンテーション、口頭試問、実技、各教科・科目に係るテスト、資格・検定試験の成績等の評価方法のうちいずれかを必ず活用することを義務づけている。これにより、目的意識や学習意欲だけでなく、大学で学ぶために必要な基礎学力も適切に評価することになる。
受験準備が緩くなった「学ばない生徒」は大学入学後に「学べない学生」にスライドする。大学教育にふさわしい準備ができているかは、こうした基礎学力とそれにともなう学ぶ意欲で評価されるはずだ。「学ばない生徒」では大学に進学する価値はない。
基礎学力と探究は切り離されるものではない
「探究に舵を切った」学校では基礎学力をしっかりと身につけさせているのであろうか。
繰り返すが、探究は学び方である。基礎学力と探究は切り離されるものではない。こうした学校の教育でも「大学進学」が教育目標になっているとしたら、その教育はどんどん空洞化し始めているだろう。高校教育が空洞化すれば大学教育も空洞化しかねない。
学校教育は「出口」、つまり卒業後の進路によって縛られる。大学がどのような受験準備を求めるかは高校教育に大きな影響を与える。
それゆえに、高校教育が空洞化する責任の一端は大学にもあるのだ。大学が「学ばない生徒」を生んでいるとしたら大学は「学べない学生」をいかに教育しているか。大学は教育機関である。この矜恃が教育の空洞化を防ぐのではないだろうか。
一方で、「定年退職後は大学で教えたい」と考えるビジネスパーソンはいまだに多い。彼らに「学ばない生徒」「学べない学生」を大学入学後「学ぶ学生」に転換させる覚悟はあるだろうか。
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