シリア政権崩壊からみえる旧オスマン領国の不幸 民主主義、国民国家という枠組みが崩れ始めた

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南のイギリス地域は、サウジアラビア地域の直接統治の地域(バグダットを中心としたイラク、クウェートを含む)と、ヨルダンとイラクの間接統治の地域である。

それ以外に残った地域がパレスチナ地域で、ここは当時の国際連盟の監視下にある混合地域である。

そして中東全域にわたってフランスとイギリスは、直接の自国領土とはしないが、宗主国としてすべての問題に関与するという条項が加わる。

英仏によるオスマントルコ領分割

「イギリス国政府およびフランス政府は、アラブ国家の保護者として、自らがアラビア半島の領土を獲得せず、また、第三国が紅海の東海岸又は島々に海軍基地を設置することに同意しないことに、同意する」

要するに、この条約は、第1次世界大戦後、オスマントルコが統治していた地域をイギリスとフランスが自らの都合がいいように半植民地とするということであった。シリアとイラクの一部はフランス管轄権の地域であり、イギリスはイラク地域をその配下に収めるということである。

ところが翌1917年、イギリスはバルフォア宣言によって、パレスチナへのユダヤ人の植民を認める宣言を行う。こうして、100年にわたる中東問題の火種がまかれる。

第2次世界大戦後、植民地からの独立運動は中東にも及び、中東諸国が国民国家として独立する。しかし、その領土は、サイクス=ピコ協定に沿ったままだ。

こうしてこの地域は、やがてソ連とアメリカとの冷戦の影響を受ける地域となる。それは1930年代に相次いで石油が発掘されたことで、絶対に手放せない地域になったからである。

そのような中でアラブの盟主となったのがエジプトである。ナセルはクーデターで国王を追放して勢力を伸ばし、やがてシリアと連合して「アラブ連合」をつくる(やがて解消)。そのころ、レバノンとヨルダンも独立し、エジプトに接近していく。

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