シリア政権崩壊からみえる旧オスマン領国の不幸 民主主義、国民国家という枠組みが崩れ始めた

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シリアのアサド政権の崩壊は、今後の不安の材料を提供している。今回、アレッポで起こった民衆反乱が、憎き独裁者アサド政権を崩壊させたという神話を、ここからは語れない。それは、シリア地域が戦後何年も混乱と対立の中にあったからである。

シリアで2度の失脚を経験した60年以上前の大統領アディブ・ビン・ハッサン・アル=シシャクリ(1909~1964年)は、アラブ連合に合邦しようとしているエジプトのナセル大統領(1918~1970年)に、かつてこう警告したという。

「シリア人の50パーセントが自分を国家の指導者であると考え、25パーセントが自分を預言者だと思い、10パーセントは自分が神だと思い込んでいる」(ユージン・ローガン『アラブ500年史』白須英子訳、白水社、2013年、下巻、72ページ)

つねに混沌としていたシリア

これはあくまでたとえであり、誇張にすぎないが、シリアがつねにまとまりのない混沌とした地域であることは、まちがいない。

エジプトのナセル大統領が計画した中東の「アラブ連合化」構想が崩壊すると同時に、中東ではサイクス=ピコ協定を基にした国家返りが起こる。そこで1971年に政権に就いたのが、アサド大統領の父ハーフィズ・アル=アサド(1930~2000年)である。

それ以来、息子のバッシャール・アル=アサド大統領(1965年~)に至るまで53年間政権を維持してきたのだが、それはあくまで表向きのこと。シリアはつねに分裂と対立の世界であったといえる。

中東問題は、先に指摘した1916年のサイクス=ピコ協定にさかのぼる。

第1次世界大戦後の中東をイギリス、フランスが分割しようとした。それはバルカン半島を彼らが分割したときと同じように、列強による帝国主義的領土分割であった。

それによると、大きくは北のフランス部分と、南のイギリス部分への分割である。北の部分は、今のレバノンとシリアの海岸部分、そしてトルコ(クルド人地域を含む)の部分は、直接フランスが統治する地域とする。

そして今のシリアの内陸部と今のイラク地域は、直接統治ではないものの、フランス企業の権益と政治介入を行う地域である。

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