62歳で死去「藤原道長」栄華極めた"最期の日々" 死の直前には息子や娘が次々と亡くなった

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日記『小右記』の著者・藤原実資は、道長と語り合っているときに、道長が「近くにいるそなたの顔も見えない」と述べたことを記しています。夜と昼の区別もつかぬほどの状態だったようで、道長の視力はかなり低下していました。お祓いをしてもらいましたが、効果はありません。

12月に入ると、「来年からは他人と対面の回数を減らす」とまで漏らすようになります。視力のみならず、気力も減退していたと言えましょう。12月下旬には、胸が苦しくなるという症状まで表れます。

年が明けた、1019年の2月。道長は「心神不覚、前後を知らず」という一時的な失神状態に陥ります。

道長がとうとう出家する

同年3月中旬にも、胸の病で発作が起きました。道長には前々から出家したいとの想いがありましたが、こうした症状(病)の連続に、とうとう出家を決断。同年3月21日、出家するのです(天台宗の僧侶・院源が戒師)。

場所は、道長の邸宅(土御門第)で、多くの公卿が参列しました。道長の法名は、行観(後に行覚)。藤原実資によると、道長の容貌は、老いた僧のようであったといいます。

光る君へ 大河ドラマ 藤原道長
道長の邸宅、土御門第跡(写真: soulman / PIXTA)

道長は、月に数度は、後一条天皇(道長の外孫)のお顔を見たいと語っていたようなので、孫のことが可愛くて仕方なかったのでしょう。

そんな道長が出家した年には、いわゆる刀伊の入寇が起こります。女真族が対馬・壱岐を襲撃。壱岐守の藤原理忠ほか多くの島民が殺害されたのです。迅速な動きをする刀伊の軍勢でしたが、藤原隆家が率いる軍勢により、撃退されます。

さて、出家した道長ですが、完全に引退したわけではなく、人事に介入したりするなどしていました。とは言え、病が癒えず、道長も自らの人生の終幕がそう先のことではないと感じていたようです。

出家した道長が意欲を見せたのが、御堂の建立でした(御堂の建立には、数百人から千人の人夫が徴発されました)。また、丈六の阿弥陀如来像を作らせています。

そして、1020年3月22日、新造の御堂(無量寿院。後に法成寺に改名)の落慶供養が行われます。太皇太后・彰子や多くの公卿がこれに参列しました。

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