62歳で死去「藤原道長」栄華極めた"最期の日々" 死の直前には息子や娘が次々と亡くなった
道長は1027年に亡くなるのですが、その間にも、有馬温泉に赴いたり(1024年)、近江国の関寺に参詣(1025年)しています。都でじっとしていたわけではありません。
道長の晩年の1027年には、後一条天皇に嫁いだ娘の中宮・威子が懐妊するという慶事もありました(威子は皇女を出産)。
しかし、同年には三条天皇の皇后であった娘の藤原妍子や、嘱望されながらも若くして出家した三男の藤原顕信が亡くなるといった不幸にも見舞われます。
道長に死が迫ってきた
そして、道長にも死が迫っていました。下痢のような症状が道長を襲い、段々と衰弱していきました。背中には腫れ物もあったようです。その年の11月21日には飲食することもできませんでした。
道長死去との「誤報」が流れて、多くの人々が馳せ集まるという出来事もありました。藤原実資も急いで駆けつけますが、実資が見た道長は身体を震わせていたようです。
医師(和気相成)の見立てによると、この症状は、腫れ物の毒が腹の中に回り、引き起こされているとのことでした。道長の身は、阿弥陀堂の正面の間に移されました。道長は阿弥陀如来像と向き合い、最期の時を過ごすことになります。
「祖父危篤」ということで、後一条天皇が法成寺に行幸されます。『栄花物語』によると、天皇が道長に「望みのもの」をお尋ねになると、道長は「この世に思い残すことはないです」などとさまざまなことを語ったとのことですが、道長の病状を考えるとそれは難しかったのではないかと疑問視されています。
また、同書には、子の頼通が父・道長の病気平癒のための祈祷を行おうとしたら、道長が「それは無用」と断ったとされます。病気平癒の祈祷は、道長によると、自分を「悪道」に落とすことに等しいからやめてくれというのです。「念仏のみを聞いていたい」と言ったとのことです。
道長のこれまでの行動(加持祈祷の依頼)を考えると、本当に道長がこのようなことを言ったのかどうかは疑問ではありますが、阿弥陀如来像と対座するうちに、何らかの心境の変化があったのかもしれません。
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