事実上の人身売買「吉原遊女」たちの悲喜こもごも 妓楼でさまざまな「教養や所作」を学んでいった

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

そのため、初期の遊女の装いは、一般の女性よりも簡素なものだったが、新吉原への移転を機に、華美な衣装によって着飾るようになった。

やがて、遊女たちが身につけた華美な着物や髪飾り、髪型などは浮世絵の美人画を通じて、庶民の羨望の的となった。いわば吉原の遊女は江戸のファッションリーダーのような存在でもあったと言える。

宝暦以前の最高位の遊女であった太夫は、兵庫髷(ひょうごまげ)の一種である立兵庫(たてひょうご)という髪型に結っていた。このスタイルはいわば吉原の格式を象徴するものでもあった。宝暦以降、太夫の位が廃止されたことから立兵庫も無くなり、島田髷や勝山髷が主流となった。

しかし、蔦屋重三郎が活躍した天明期頃からは立兵庫がリバイバルとなり、復活した。こうした遊女の髪型はその後、さまざまに改良され、やがて廓外の一般の女性たちにも流行していった。まさに吉原は流行の発信地だったのである。

文化期には、上級遊女は髪を島田髷に結い、大きな櫛を2枚挿すのが流行した。簪(かんざし)は、前後に合わせて16本挿したが、簡略化して前挿2本、後挿6本とすることもあった。これに長い笄(こうがい)を挿していた。

遊女の服装に見る「ファッションとモード」

遊女の服装も時代ごとのモードがある。元禄期には、優雅さと大胆さを兼ね備えた、吉原特有の装いが生まれた。宝永頃より、幅広で丈の長い帯を胸前で結ぶようになり、帯つけは下過ぎるほどよいとされた。

延享・寛延頃の太夫は、紗綾(さや)・縮緬・羽二重の小袖を着、仲之町を道中した。基本的に着物は毎日取り替えて、違うものを着たという。

しかし、太夫が廃止された宝暦以降、花魁の衣装は錦繍を用いた華美なものとなり、毎日同じものを着て、花魁道中をするようになった。

いわば吉原の大衆化とともに、見物客の目を楽しませるような、より鑑賞性に富んだ衣装が好まれるようになったのだろう。天明から寛政の頃には、さらに衣装の華麗さが増し、胸高に結んだ前帯の主張が増してくる。

文化・文政期には、重厚な打掛に帯を結び垂らすスタイルが流行になり、こうした着物に合わせて、髪型や髪飾りや履き物なども極端に大型化した。

次ページ美貌だけでなく、それなりの教養も必要
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事