「道長vs三条天皇」徐々に生じた"2人の大きな溝" 「一帝二后」を自ら主導した三条天皇の策略
一条天皇は生前に、円融院法皇御陵のそばに土葬するように言っていた。亡き定子がやはり生前に土葬を希望して、鳥辺野に葬られたこともあったのだろう。だが、そんな大事なことを、道長は何日間か、すっかり忘れていたのだという。
火葬にすべきところを土葬にしたならばまだしも、逆はもう取り返しがつかない。すでに火葬にしてしまっているのに、どうするんだ……と行成も思ったに違いない。
しかし、道長は「今さらいっても仕方がない」と持ち前の切り替えの早さを発揮。この話を終わらせているのだから、ヒドい話である。
三条天皇が道長を関白にしたがったワケ
「いかに最期を迎えるか」という大事な本人の希望さえ忘れてしまうくらい、道長の頭を占めていたのは、新たに即した三条天皇との関係づくりだったに違いない。
だが、どれだけ備えていても、いざ三条天皇の治世が始まると、想像以上にウマが合わなかったようだ。
まずは、何としてでも関白に就任してもらいたいと、道長は三条天皇から何度となくアプローチを受けることになる。何も道長を重用したかったわけではない。自分の側に取り込むことで、政治の主導権を握ろうとしたのであろう。
1011(寛弘8)年8月23日、三条天皇から「汝に関白詔を下すこととしよう」と伝えられると、道長は次のように応じたという。
「これまでも同様の仰せがありましたが、難しいということを申してきました」
関白になれば、公卿たちが議論する陣定には出られなくなってしまう。道長は「内覧」の地位のほうを好んだ。内覧とは関白に準じる地位で、奏上された文書に目を通すことができ、陣定にも出席できる。
実質的に関白のような権力を持っていた道長は、あえて関白につくメリットはなく、三条天皇もそれを承知で、少しでも自分のコントロール下に置こうとしたのだろう。
三条天皇の再三の説得をしのいだ道長。やむなく諦めた三条天皇から道長に、内覧宣旨が下されることとなった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら