「道長vs三条天皇」徐々に生じた"2人の大きな溝" 「一帝二后」を自ら主導した三条天皇の策略
道長が一条天皇の病を心配して悲しんだがゆえの悲劇のようにも思えるが、一方で、道長のその後の行動はすばやいもので、一条天皇に知らせることもなく、譲位の発議を行っている。また、この頃から、一条天皇が譲位したときに備えて、皇太子の居貞親王のもとを頻繁に訪れるようになった。
さかのぼると、寛弘7(1010)年2月20日には、道長は次女の妍子を居貞親王の妃としている。すでに「一条天皇の次」を念頭に置いたアクションを起こしており、崩御の卦が道長の行動を加速させることとなる。
とはいえ、道長の栄華はもともと、一条天皇がわずか7歳で即位して父の兼家が摂政を務めたことに端を発している。一条天皇とはともに過ごした年月も長い。崩御の卦が出ていることを知ったときに流した道長の涙に、偽りはないだろう。
だが、道長はいかなるときにも、頭の切り替えが早かった。一条天皇の死が近いと知って悲しみはしたものの、その目線は、譲位後への新体制へと向けられていたのである。
火葬後に思い出した一条天皇の遺志
早々と次を見据えていた道長だけあって、いざ一条天皇が崩御したら、もはや振り返ることはなかった。伝えられていた一条天皇の大切な遺志さえも、すっかり忘れてしまっていたという。
一条天皇の葬送は寛弘8(1011)年7月8日に執り行われた。「遺体を火葬して弔うこと」を「荼毘に付す」というが、北山で荼毘に付されると、一条天皇の遺骨は東山の円成寺に仮安置される。
次なる展開に意識がいっている道長は「心ここにあらず」だったと思われる。9日の早朝に道長からこんな言葉を言われたと、藤原行成は『権記』(7月20日付)に書いている。
「土葬にして、また法皇の御陵の側に置き奉るよう、故院が御存生の時におっしゃられたところである。何日か、まったく覚えていなかった。ただ今、思い出したのである」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら