日本で「アニミズム」が保存された3つの根本理由 「自然信仰」を踏まえた「地球倫理」の時代へ

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多少脱線めくが、このように「後発の国家」が、その後発性ゆえに「神話」的な土着の民間信仰を自らのアイデンティティとして積極的に位置づけようとするという現象は他でも見られる。

私がこの点で想起するのはフィンランドである。フィンランドは北欧自体がヨーロッパの文明圏において「辺境」的な位置にあることに加え、北欧の中でも「辺境」に位置している国と言ってよい。私はヘルシンキに2001年12月から翌年1月までの2カ月間滞在したことがあるが、この国が1917年にロシアから独立するにあたって、それに大きな影響を与えたとされるのが「カレワラ」と呼ばれる民族叙事詩の編纂だった。

これは19世紀に医師エリアス・リョンロートによって、フィンランド各地の民間説話や神話的物語を集める形でまとめられたもので、天地の創造から始まる、ある意味で“『古事記』の近代版”とも呼べるような性格のものである。ちなみにフィンランドの作曲家シベリウスもこの「カレワラ」にインスピレーションを得て多くの曲を作曲している。

日本とは風土も歴史もまったく異なるが、実はフィンランドも、その豊かな森林とともに、キリスト教が渡来する以前のアニミズム的な自然信仰が残っている国という側面をもっている。

一例を挙げよう。私は上記のヘルシンキ滞在時に、ヤーリ君という当地の神学部の学生と知り合ったのだが、彼によれば、フィンランドのキリスト教には(通常のキリスト教の視点からすればやや異端的に響くが)「サイレンス(静けさ)」を重視するという思想の伝統があるとのことで、私はそのことをとても印象深く受け止めた。

それは有と無の二分法を超えて、生と死の根源にある何かとしての「サイレンス」ということであり、ある意味でアニミズム的な自然観にもつながるような発想と言えるだろう(この話題については拙著『生命の政治学――福祉国家・エコロジー・生命倫理』岩波現代文庫、2015年を参照されたい)。

話を「カレワラ」に戻すと、興味深いことに「カレワラ」の物語の最後は、イエス・キリストと思われる子どもが(処女懐胎を通じて)誕生し、その子を殺すか否かが問題となるが、ワイナミョイネンという主人公の一人はその子の誕生を祝福し、自らは海の彼方(そして陸)に向けて旅立つところで終わる。これはキリスト教の到来とともに、フィンランドの“土着の神々”が自らの故郷の住処に帰っていったことを象徴しているとされる。

ある面で、これは構造としては日本における「神仏習合」と同じ性格のもの――外来の普遍宗教と土着の神々(自然信仰)の融和――ととらえることもできるのである。

日本的アニミズムの課題①

以上、日本においてアニミズム的な自然信仰が保存された理由を3点にそくして見てきた。そしてすでに述べたように、人間による資源・エネルギーの消費が地球のキャパシティを超えるような状況になり、またローカルからグローバル・レベルに及ぶ環境問題への関心が高まる中で、エコロジーとの関連を含め、アニミズム的な自然観が新たな文脈で再評価されつつあるのが現在の状況である。

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