日に日に衰弱する柏木が親友に語った「心残り」 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・柏木⑥

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「どうしてこんなに弱ってしまったのか。今日は、こんなおめでたい日なのだから、少しでも元気になったかと思っていたのに」と大将が几帳(きちょう)の端を引き上げると、

「まったく残念なことに、別人のようになってしまった」と督の君は烏帽子(えぼし)だけをかぶり、少し起き上がろうとするが、いかにも苦しそうである。身に馴染んで柔らかな白い衣をたくさん重ね、その上に夜具を引きかぶって横になっている。病床の周囲はこざっぱりと片づいていて、薫物(たきもの)が香ばしく漂い、奥ゆかしい暮らしぶりである。病床ではあってもたしなみ深く感じられる。重い病を患っている人は、どうしても髪も髭も乱れ、なんとなくむさ苦しい感じも出てきてしまうものだが、痩せ衰えた姿がかえってますます色白く、気高く感じられる。枕を高くして話す様子は、じつに弱々しく、息も絶え絶えで、なんとも痛々しい。

「長く患っているわりには、そうひどくやつれてはいないようだ。いつもの顔立ちよりかえって男ぶりが上がったようだ」と言いながらも涙を拭い、「どちらが先立つことも後に残されることもないようにと約束したではないか。なんて悲しいことがあるんだろう。あなたの病気がどうしてこう重くなったのか、私は訊くこともできない。こんなに親しい間柄なのに、ただもどかしく思うばかりで」と大将の君は言う。

柏木の告白

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「私自身、どうしてこうも重くなったのかはっきりとはわからないのだ。どこが苦しいということもなかったから、急にこんなことになろうとは思わないでいたのに、そう月日がたたないうちに衰弱してしまって、今は正気も失せたようになってしまった。惜しくもないこの命なのに、あれこれとこの世に引き止めてくれる祈禱(きとう)や願のおかげだろうか、さすがにまだ生きているけれど、それもかえって苦しいから、みずから進んで早くあの世に行きたい気がするよ。とはいえ、この世の別れともなると、思い残すことはたくさんある。両親にも充分孝行できずに、今さら心配ばかりかけて、帝にお仕えすることも中途半端な有様だ。我が身をふり返ってみても、なおさらたいしたこともできなかったという心残りもある。しかしそうした通りいっぺんの嘆きはそれとして、ほかに心の内に思い悩んでいることがあるのだ。こうした最期にあって、どうしてそれを人に漏らしていいものかと思うのだが、やはり秘してはおけないことを、あなた以外のだれに打ち明けることができよう。だれ彼とたくさん身内の者はいるが、さまざまな事情があって、それとなく打ち明けることもできないのだ。六条の院(光君)とちょっとした行き違いがあって、この幾月か、心の内で申し訳なく思っていることがあるのだが、それがじつに不本意で、生きていくのも心細くなり、それで病気になったのかもしれない。そんな折、六条の院からお呼びがあって、朱雀院の御賀の、試楽の日に参上し、ご機嫌をうかがったところ、未だに許してくださらないお気持ちがそのまなざしにあったので、ますますこの世に生きているのも憚(はばか)られるような気持ちになって、何もかもおしまいだと思った先から心が騒ぎ出して、こうして静まらないままなのだ。六条の院には、私などは人の数にも入らないだろうが、幼い頃から深くお頼りしていた人なので、どんな中傷があったのかと、このことだけがこの世の心残りとなるだろうから、きっと往生の妨げになりそうだ。だからどうか何かのついでがあれば、このことを覚えていてもらって、よろしく申し開きしてほしいのだ。私が死んだ後でも、このことを許していただけるのならば、あなたのおかげだとありがたく思う」などと話すうちにますます苦しそうに見受けられ、大将はたまらなくなる。大将の心の内では思い当たることがいろいろあるけれど、確実にこういうことだとは見当をつけられない。

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