虎に翼モデル「三淵嘉子」が愕然とした"差別文言" 「女性弁護士誕生」と騒がれる事に違和感を抱く
嘉子は明治大学専門部女子部(3年生)でかけがえのない仲間を得て、法律の勉強に邁進する。時にはハメをはずしながらも(参考記事【「虎に翼」モデル"三淵嘉子"大胆すぎるスキー事件】)、20歳で女子部を卒業すると、明治大学法学部に編入。男子学生と共学という大きな環境の変化のなかでも、嘉子は変わらずトップの成績を維持し、首席で卒業を果たすことになる。
それだけ優秀な嘉子でも、卒業後の司法科試験は、大きなプレッシャーだったようだ。当時、司法科の試験は論文の筆記試験を日曜日以外の7日間で行い、それに合格したものが、口述試験に進むという形式だった。
試験後に自宅の玄関で泣き崩れた
筆記試験が7日もあれば、うまくいかない日も当然出てくることだろう。ある筆記試験のときには、帰宅した嘉子が玄関で「試験に失敗した……」と泣き崩れて、家族を驚かせたこともあった。
事情を知って嘉子のもとへと急いだのは、野瀬高生である。当時、嘉子の家には、書生として住み込んでいた学生がおり、野瀬もその1人だった。
野瀬はちょうど嘉子が試験を受ける2年前に、司法科試験に合格。東京で司法官試補として働いていた。嘉子の母親から連絡を受けると、野瀬は嘉子に会いに行き、どんな答案を書いたのか詳しく聞いてみた。
すると、どうも内容的には問題がなかったらしい。野瀬から「絶対大丈夫」と励まされたことで、嘉子は気持ちを立て直す。翌日からまた受験に臨んでいる。
昭和13(1938)年11月1日、司法科試験の合格者がラジオでも報じられると、新聞各紙のメディアはこぞって記事に取り上げた。受験者数2986人のうち、合格者は242人で、そのうち3人は女性だった。
筆記試験では泣き崩れた日もあった嘉子だったが、蓋を開けてみれば、抜群の成績での合格だったというから、さすがである。
嘉子は試験対策として、半紙を縦二つ折りにし、左に問題を右に答えを対比させるという形式で、オリジナルのサブノートを作っていた。合格のために必要な要素が詰まった秀逸なサブノートだと、周囲も絶賛。勉強法1つとっても、自分の頭で考え抜くのが、なんとも嘉子らしい。
嘉子は、女性初の合格者の1人として、歴史に名を刻むことになった。
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