虎に翼モデル「三淵嘉子」が愕然とした"差別文言" 「女性弁護士誕生」と騒がれる事に違和感を抱く

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この年、つまり昭和13(1938)年に嘉子のほかに合格した女性は、中田正子と久米愛だった。

司法科の試験を女性も受けられるようになったのが昭和11(1936)年であり、19人の女性が受験するも合格者は0人。その翌年の昭和12(1937)年に、初めて女性で筆記試験に合格したのが、この中田正子である。

残念ながら、そのときは口述筆記で不合格となり、女性初の弁護士誕生とはならなかった。「女性だから落とされたのではないか」とも言われたが、昭和13年に、嘉子らとともについに合格し、リベンジを果たすことになった。

女性は裁判官にも検察官にもなれなかった

初めての女性弁護士が一気に3人も出た……というニュースにマスコミは飛びついた。「女性が司法科に合格した=女性弁護士の誕生」と騒がれたのは、当時はたとえ司法科試験に合格しても、裁判官や検察官になれるのは男性のみで、女性にはその道が閉ざされていたからである。

口述試験場にあった「裁判官募集」の紙に「裁判官になれるのは日本帝国の男子に限る」と書かれているのをみて、嘉子は人知れず、唇をかみしめていた。のちにこう振り返っている。

「なぜ日本帝国男子に限るのか。同じ試験を受けて、どうして女子ではダメなのかという悔しさが猛然とこみあげてきたことが忘れられません」

そんな嘉子にとっては、司法科の試験に突破した途端に「女性弁護士誕生」と騒がれることにも、違和感を抱かずにはいられなかったことだろう。

さらに嘉子は、女性弁護士の誕生に沸くマスコミからの取材に対して、まったく別の角度からも違和感を持っていた。それは、法律家を志した動機として記者から「か弱き女性の味方になろうとしたのですか」としきりに質問されることだった。

もちろん、女性の地位や権利がいかに惨めなものなのかは、嘉子が法律を学べば学ぶほど実感したことだ。多くの女性が虐げられていることに、無自覚ですらあったと、心を痛めたのも事実である。

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