〈資本論〉入門 デヴィッド・ハーヴェイ著/森田成也、中村好孝訳 ~“精読”に誘う『資本論』読破の友
『資本論』は第1章「商品」から始まる。その冒頭でマルクスは「資本制生産様式が君臨する社会では、社会の『富』は巨大な商品の集合体の姿をとって現われ、一つひとつの商品はその富の要素形態として現われる」(今村仁司ほか訳『資本論 第一巻』上、筑摩書房)と言う。最初に遭遇する『資本論』の難所であり、ここで挫折する読者も多いのではないか。解説書に救いを求めても、読後に『資本論』をひもとく勇気が湧いてくる本はまれだ。その意味で、苦しむ読者を〈この1冊で『資本論』がわかる〉と誘惑する解説書は“罪”かもしれない。
だが、本書は違う。『資本論』を“積ん読”させる入門書ではない。『資本論』を読んでもらうことが目的だからだ。実際、著者は冒頭の難解な文章を引用し、「現れる(appear)」が2回出てくるが「である(is)」と同じではない、それは何かほかのものが表層の外観(商品)の下から現れ出てくることを示している、と説く。つまり、資本主義的な生産様式が支配的な社会(以下、資本主義と略す)では、富が〈商品である〉のではなく、富が〈商品として現れる〉と、読解の補助線を引いてくれるのだ。
この補助線に安心して“積ん読”から“精読”へと駆られそうな読者も、しばらくは(と言っても残り500ページもあるが)著者の講義に耳を傾けてほしい。商品から始める『資本論』の研究は有効だと述べたうえで、使用価値でもなく、交換価値でもなく、両方の価値を統合する「価値」は何かと問う。それは古典派が指摘した人間労働の物理的時間でもなければ、新古典派が説く市場の諸力で決まる価格でもない。マルクスによれば、交換の際に発見される「使用価値の生産にとって社会的に必要な労働時間」(以下、社会的時間と略す)である。