――お母さんの言葉が原点ですか。
そうですね。この言葉はずっと頭から離れませんでした。
そういうこともあって、高校時代には「将来は科学者になり、研究者として自立していこう」と考えていたんですが、京都大学の理学部に進んでみて、その夢が甘かったことを思い知らされました。
同級生で女子学生はひとりだけでしたし、当時は男性でも博士課程に進んで研究者として大学に残る道は狭き門で、ましてや女性研究者はほとんどいませんでした。卒業しても女性研究者を採用してくれる研究機関や企業は皆無で、物理や化学の教師になる道しかないという状況でした。
――女性であることが大きな壁になっていたんですね。
ええ。まあ、周りは秀才ばかりだったので、たとえ私が男性だったとしても、能力的に厳しかったかもしれませんけど(笑)。
だけど、やはり女性が活躍できる場はほとんどなかったのは事実です。そこでものすごく悩んだんですね。自立した女性になるためには、これからどうしたらいいのか、と。
それで、ふと「医者になるのもいいかも」と考えたわけです。医者なら医師免許という国家資格さえ取得すれば、スタートラインでは少なくとも男性と同じです。また、祖父が結核を患ったときに、お世話になった先生が女医さんで、「将来はお医者さんになるのもいいぞ」と言われたことがあったのを思い出したんですね。
女性には、男性の3割増しの頑張りが必要
――それで医学部に入学しなおしたわけですね。医者の世界は男女の壁はそれほどでもなかったのですか。
いいえ、やっぱりすごかった(笑)。医学部で6年間勉強し、京都大学の医局のどこかに採用してもらうのが通常のコースなのですが、私は心臓外科を志していたでしょう。当時、女性で外科、ましてや心臓外科なんて志望する人はいなかったんです。
だから、私が希望していた第二外科からは門前払いを食らいました。後でわかったことですが、女性を受け入れる設備がなかったのがいちばんの理由だったようですけどね。具体的には女性用の当直室とか女性用トイレがなかったんです。でも、女性であることで不利益を被ったことは違いありません。
またもや絶望しかけましたが、大学の結核胸部疾患研究所というところが拾ってくれて、なんとか研修医としてキャリアをスタートさせることができました。そこからもだいぶ、紆余曲折がありましたけどね(笑)。
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