BPOの大義はあくまで言論・表現の自由を守ること 元BPO委員「コンプライアンスにもほどがある」

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だが検証委員会の在任中には、BPOが番組や制作者に刑罰を課す裁判所のように見なされていると感じることが多かった。番組審議が始まったばかりで何も結論が出ていないのに、関係者を社内処分して担当から外したり、番組の打ち切りを決めてしまったりすることがあった。

そうするとその制作者や番組は、「やり直し」「改善」ができなくなってしまう。とりあえず社会的な批判をかわすことができればいいという判断なのだろうか、それは過剰反応だ。

「コンプライアンスにもほどがある」と言いたい。筆者は、むしろ意見書の結論は放送界や視聴者も含めた議論に開かれているとさえ考えている。

BPOの委員は意見書を出した後に、審議対象となった番組を制作した放送局の研修会に招かれることも多い。意見書の趣旨を説明し、放送局員と質疑応答を行う会である。

その際に最もガッカリする研修会は、役員が神妙な顔をして「意見書の提案を遵守します」と言ったきり、シーンとしてしまう研修会である。「BPO委員の前で余計なことを発言するな」と箝口令でも敷かれているのだろうか。

それとは逆に、放送局員が自由闊達に発言する研修会もある。「このような事案を起こしたことは、同じ放送人として恥ずかしい」と意見書以上に強い口調で身内を批判する人、かと思えば「意見書に書かれてある再発防止策では現場が回らない」と本音を言う制作者もいた。

このような応答こそが、ジャーナリストとしての矜持であり、放送人の気概ではないだろうか。意見書を起点としながら、まさしく自主自律で改善策を考えてほしいのである。

BPOのせいで番組がつまらなくなったのか

それでは、BPOの委員会が番組を審議するコンプライアンスの基準とは何だろうか。最も上位にある基準は、「言論・表現の自由」だということはすでに述べた。

次に来るのはNHKの「日本放送協会番組基準」や「日本民間放送連盟放送基準」をもとに各民放局が自律的に定めた「放送基準」である。筆者はその外側に、放送人の職業倫理があると考えている。そして、さらにその外側には社会の「常識(コモン・センス)」がある。

「BPOのせいで、最近番組がつまらなくなった」と批判されるのは、特に青少年に対する配慮と卑わいとみなされる表現であろう。

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