――別人格が生まれたような感覚?
はい。見知らぬモンスターが出来上がっていく感じでした。私自身は何も変わっていないのに、そのモンスターを操らなきゃいけなくなった。そこに慣れるまでに何年もかかって……苦戦していましたね。
――当時、私たちがTVで観ていた相川さんは虚像だった?
メディアに出ているときはそんな感覚もありましたけど、歌っている時は私自身でした。“ロック少女”である相川七瀬は、プロデューサーである織田哲郎さんが私の中に眠っていたものを掘り出して磨いてくれたものなんです。10代の頃から一番信頼し、私を一番知っていてくれたのも織田さんでした。だから織田さんが書く歌詞は私がモデルになっていることは明確で、楽曲の主人公像と自分が乖離しているとは、歌ってきて一度も思ったことがありません。アーティストとしては幸せですよね。
――今も織田さんと交流は?
ついこの間も2人でご飯を食べました。来年の30周年記念ツアーは織田さんとまた一緒にまわりたいなと思っているんです。私たちは、プロデューサーと歌手というよりは、師匠と弟子という感じで。それは今も変わりません。織田さんには娘さんが2人いらっしゃいますが、私も織田さんの娘の1人という気持ちです(笑)。
20代前半は創作する苦悩が大きくなっていった
――よい関係を築かれてきたんですね。
そういう師匠に出会えてここまで来れたことは、自分でも奇跡だなと思います。でも、師匠は当時、本当に厳しかったです(笑)。20代前半の全盛期、本当に苦しかった。どんどん歌詞を書いて、曲を出さなきゃならないと追われていました。だんだんと、好きなことが仕事になった喜びよりも、創作する苦悩がはるかに大きくなっていって…….。
――90年代の音楽業界は、ミュージシャンも3カ月に1度はシングル、アルバムも1年に何枚も出すというハイペースなリリースが主流でした。
常に締切に追われていました。徹夜で考えても全くいいフレーズが浮かばない。100枚書いても全部ボツなんてこともありました。1998年頃はもう心身の限界でした。あの頃、リリースしたアルバムには、そんな傷んでいた自分が出ていると思います。
今でこそ、時代に求められていた幸せも理解できますし、あの経験も価値のあるものだったと思えますけど、そのアルバムを冷静に聴けるまでは長い時間を要しました。
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