――今や不適切な冗談ですね。
仕事とプライベートの両立に対する葛藤だけでなく、自分の音楽性についてもここから10年、出口の見えないトンネルの中に入りました。プロデューサーの織田さんの元を離れてからは、自分たちであのレベルの楽曲に到達できるわけもなくて。あらゆる面で、自分の未来を見失っていました。歌はずっと好きだし続けていたけれど、もう完全に辞めた方がいいのかなと、35歳くらいまではもがき続けた感覚がありました。
40代になって全てが欲しいと初めて思った
――トンネルを抜けたきっかけは?
東日本大震災です。「自分は何のために歌うのか?」という大きな問いかけが自分の中に生まれました。被災地に入るたびに、また「私はどうして生かされているのか?」といった自問自答を繰り返しました。そして、被災地と繋がりを持たせてもらう時間の中で、私は「もう過去の自分を生きるのではなく、今の私を生きていくんだ」と心から納得しました。
織田さんが作ってくれたような曲を真似して作ることなんてできない。だから、自分が心から今歌いたいと思うメッセージがロックじゃなくても歌えばいいんだと、初めて自分一人で作っていくこれからの音楽を肯定できました。
それは過去から解放された瞬間でした。私は楽しい時だけではなく、悲しい時や辛い時にも寄り添える歌も歌いたいのだと思って、震災後に初めて作ったのが『ことのは』という曲でした。
――新たな決意と覚悟ですね。
歌手として本気でリスタートしようと思ったし、キャリアについての悩みや、母親である自分もありのまま受け入れて、最大限やれるだけのことをやろうとも決意しました。その軸をぶらさずに、使える時間やエネルギーを音楽に余すことなく使えばいいと思いました。すると、すごく楽になったんです。
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