4回金メダルの国枝慎吾が「障害受容」に至るまで 車いすテニスの前に打ち込んだスポーツの存在

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国枝は振り返る。

「むちゃくちゃ楽しかったですね。僕らは漫画『スラムダンク』の世代なんで、漫画のキャラクターの名前を叫びながら、シュートを打ってました」

車いすテニス界で随一といわれるチェアワークの原点が、ここにある。

「確かに、車いすテニスを始めたころ、驚くぐらい俊敏に動けたのは、友だちとのバスケで培ったもの。競技用ではなくて、日常の車いすでしたし、車いすバスケは健常者のバスケと違い、ドリブルをした後にボールをいったん保持して、またドリブルすることが認められているんですけど、当時の僕はそういうルールを知らなかったんで、ダブルドリブルはNGにしていました」

中学3年で知った「ユーイング肉腫」

元気で友だちと遊ぶ姿を見ながら、母は息子に告げていないことがあった。手術で取りのぞいた腫瘍は悪性のがん、「ユーイング肉腫」だった。

医師からはがんであったことを息子には告げないように言われた。医学書を探すと、「5年生存率」は30%と書かれた本を見つけた。

息子は5年以上、生きられない可能性がかなりある、ということだと理解した。

母は、そのデータを医師に確認することはなかった。

息子に明かさなかった理由がもう一つある。発症した年に、人気アナウンサーの逸見政孝さんが記者会見でがんであることを告白し、年末に亡くなっていた。

「テレビのニュースとかで見ていたんでしょうね。慎吾はがんには絶対になりたくないと言っていたんです。それもあって、すぐに言うのは控えました」

息子に告げたのは中学3年のときだった。「5年生存率」を特別意識していたわけではないという。

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15歳ぐらいになったら、なぜ、歩けなくなったのか、本当の原因を息子も知りたくなるだろうと考えたからだ。

「自宅だったと思います。たぶん、ポロッとさりげなく言ったんだと思います。今日言うぞ、というのではなくて」

息子はゲームをしながら聞いていて、それに対する感想はなかったと記憶している。

国枝の、母からの「告知」についての記憶はあいまいだ。

「中学3年ぐらいだったか。車の中だったか……。がんだったと言われて、死ななくて良かった、生きていて良かったと思いました。毎日が楽しかったし。命があることへの感謝が、テニス、そして人生への向き合い方にもつながっています」

国枝 慎吾 元プロ車いすテニスプレーヤー

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くにえだ しんご / Shingo Kunieda

1984年生まれ。9歳で脊髄腫瘍のため車いす生活となり、11歳で車いすテニスと出会う。2004年、アテネパラリンピックでダブルス金メダル。2006年、アジア人初の世界ランキング1位。2007年、車いすテニス史上初となる年間グランドスラム。2008年、北京パラリンピックでシングルス金メダル。2009年、プロ宣言。2012年のロンドンパラリンピック、2021年の東京パラリンピックでも、シングルス金メダル。2022年、ウィンブルドン選手権を初制覇し、4大大会で優勝する「生涯グランドスラム」に加え、パラリンピックも制覇する「生涯ゴールデンスラム」を達成。2023年に世界ランキング1位のまま引退。2024年より、全米テニス協会の車いすテニス担当のアドバイザーに就任

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稲垣 康介 朝日新聞編集委員

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いながき こうすけ / Kosuke Inagaki

1968年東京都生まれ。1992年、朝日新聞社に入社、東京、大阪のスポーツ部、欧州総局(ロンドン)、アテネ駐在などを経て、現在、スポーツ担当の編集委員。五輪取材歴が長く、夏冬あわせて10大会を現地でカバーしてきた。国枝慎吾選手は2004年アテネパラリンピックで取材したのを縁に長年取材してきた。著書に『ダウン・ザ・ライン 錦織圭』(朝日新聞出版)。

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