4回金メダルの国枝慎吾が「障害受容」に至るまで 車いすテニスの前に打ち込んだスポーツの存在
「窓から飛び降りられるなら飛び降りたい、って言いましたかね」
病室が何階だったのかは記憶にない。たしか、3階だった気がする。
「4年生の子がそんなことを言うのか、と思いましたね」
常に前向きで元気。反抗期もなかった。母が記憶する、息子の唯一の弱音だった。
俊敏なチェアワークの原点
2021年5月、母の珠乃から「飛び降りたい」発言を聞いた後、改めて国枝に、「発言」の記憶があるか、聞いてみた。
「全然、覚えてないんですよ。うーん、言われてみると、そんなこともあった気がしないでもない、かな。僕の封印された記憶がよみがえったところがあります」
こんな話もしてくれた。
「小学校6年までの僕は、夢の中ではずっと歩いていた。野球をしたり、駆けっこをしたり。それが中学校に入学したころから、車いすに座っている僕が出てくるようになった。そのころが、僕にとっての障害受容だったかもしれないですよね」
国枝は「障害受容」という心理学の専門用語で説明してくれた。
医学関連のサイトを検索すると、5つのプロセスが説明されていた。
障害を負った直後の「ショック期」、認めようとしない「否認期」、今までできていた生活ができなくなることを受け入れがたい「混乱期」、障害に屈せずに生きようと心がける「努力期」、そしてポジティブに捉えられるようになる「適応期」。
国枝の述懐を聞く限り、「適応期」まで到達するのが早かった。
なぜなのか。打ち込むことがあった。バスケットボールだ。
入院中は大好きなテレビゲームの「マリオカート」に熱中し、若い医師に相手になってもらっていた。
退院して自宅に戻ると、体を動かしたい欲求がわき上がってきた。元々、野球少年。しかも、運動神経は抜群だ。選んだのがバスケットボールだった。
自宅が、最適な立地にあったのも、幸運だった。自宅前は道路の奥で、その先には車止めがあった。自動車が入ってこないから、自宅の敷地内から道路に向けてバスケットボールのリングを設置した。「放課後、どこかで遊ぶことができないので、自宅が学童保育のようになればと思っていました。少なくとも毎日、5、6人は集まってましたね」と珠乃はいう。母はおやつと飲み物を用意した。
「私にしたら、あれだけ外を駆け回っていた子がしょんぼりしているのを見るのはつらくて。前の笑顔を見たいな、というのがあったので。それを設置したときはすごく喜んでいました」