国枝慎吾「金メダル4回」叶えたメンタルの鍛え方 こうして車いすテニス界のレジェンドになった
全豪オープンでのカウンセリングは、個別の面談になった。当時の国枝は英語を聞き取るスキルが十分ではなかった。アンの英語はかなり早い。論理的にポンポンと早口でたたみかけてくる。
国枝は明かす。
「アンの話す英語のうち、自分で理解できていたのは、2割、もしくは3割程度でした」
「オレって……世界ナンバーワンになれますかねえ」
通訳として同席していたのが、吉田仁子だった。1975年ウィンブルドン選手権でアン清村と組み、女子ダブルスを制した沢松(現・吉田)和子を母に持つ。
吉田は物心ついたころからラケットを握り、米国の大学に進んだことで英語も堪能だったため、うってつけの人選だった。TTCの理事長であった父、宗弘の指示でメルボルンに派遣されていた。
ここからは吉田の記憶を元に振り返る。
プレーヤーズラウンジで、アンは問いかけた。
「何か聞きたいことはある?」
唐突な質問に、国枝は「ええ?」と戸惑いを隠せなかった。
「何でもいいから」
吉田に促されて、恐る恐る、聞いた。
「オレって……世界ナンバーワンになれますかねえ」
当時、国枝は世界ランキング10位前後に停滞し、壁にぶつかっていた時期だった。アンが笑って、問い返した。
「あなたはどう思うの?」
国枝は一瞬、萎縮した。アンが続けた。
「なりたいとか、なれるとか、というより、自分が1位だというマインドで臨むよう、心がけなさい」