彼らは、これが今私に起きていることから、当時私に起きていたことへ移動しているのだ。その出来事はより現実から切り離され、その分、物語の大きな流れのなかに組み入れるのが容易になる。
2つめはポジティブな言葉を使うこと。誰かが飛び跳ね、笑い、そして泣いている物語を読むと、私たちも心のなかでその動作を再現する。
だがそれだけではない。
私たちが物語を語る場合にも、そうした「ミラーリング」が起こるのだ。もっとよくなる、もっと穏やかになる、もっと幸せになると自分に言い聞かせれば、私たちの心はその結果をシミュレーションし始める。反応によりそうした結果がすぐに達成されるわけではないが、私たちはたしかに、その可能性に向かって動き出している。
3つめはエンディングを確定させることである。
人生の物語をどのように語るのかは、私たちが選択できるという事実だ。ただし書き直しができないような油性ペンでは書かない。
不変性、まして正確性にはなんの意味もないのだ。単純に気分がよくなるからという理由も含め、いついかなるときでも物語は変更できる。結局のところ、私たちの人生の物語の主要機能は、自らの経験を過去にしっかりと根づかせ、そこから将来の繁栄を可能にする何か有益なものを得られるようにすることであり、それが起こったときにのみ、人生の移行が完了したとわかる。
そうして初めて、私たちはエンディングを確定できるのだ。
新たな自分を作り出すために
それまで積み上げてきた人生の出来事が砕け散ったあとで、再び自分自身を完全な姿に戻すプロセスが「移行」だとするなら、私たちの人生の物語を修復するのはそのプロセスにおける最高の宝物であり、新たな自分を形成するという芸術的行為を完成へと導いてくれるものだ。
物語は、そうした人生のあらゆる部分を結びつける人生の移行の一部である。私もかつてはそうしたひとりであり、その後人生の転機を経験し、現在の私がある。
近年私たちは、物語は人間が生きていることの主要な精神的単位だと再認識するようになった。自分のため、あるいは人に読まれるのを前提に、無関係に見える出来事を取り上げ、筋の通った物語に変換する能力は、人間に備わる際だった特徴のひとつだ。
そしてこの能力は、すでに私たちのなかに組み込まれている。