真面目な人ほど職場で「闇堕ちしてしまう」真因 「倫理感の欠如で不正が起きる」への違和感

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またその頃は結婚など、プライベートでの人生設計も同時期にこなす必要がある(「リア充」の呪縛)ものの、あっちもこっちもどん詰まり。「死んだら薬になれそうだな」と思ったことは正直、何度もあります。

でも言えなかったし、言わせてもらえる空気もありませんでした。「職場で傷ついた」なんて、バカな。元気に活躍している人がたくさんいる中で、そんな負けを認めるようなこと、自分からできない。産業医に相談? ないない。自分から「メンタル不調」フラグを立てに行く人、そうそういないって……。

「データ至上主義」のなかで追いつめられる

ああでもない、こうでもないと考えた末、「傷つき」を自覚し、適切にケアする機を逸した私は結局、新卒の頃から15年もの間、丸の内線の発車サイン音を聞くと、動悸が止まらないのでした。

とはいえ、今となってはわかるんです。自分の感覚に一定の自信があり、誇りもあるのに、データを扱う仕事であったため、自分の「感覚」「主観」をことごとく封印させられたことが、ストレスだったと。

私は私の方法で「頭」というか、「心」というか、それをフル活用して仕事していたつもりが、「客観性」「データ」至上主義の中で、自身の知性はおろか、存在そのものを全否定されたこと。これが私を追い詰めたのだと振り返ります。言えないから癒えない、というのは本当にバカにできません。

ただしこれも、だからと言って、会社側だけが責められるべき話ではないことは、お気次のとおりです。

リサーチやコンサルティングファームが「感覚」の話をしだしたら、収拾つきませんよね。そもそもクライアントも社内も求めているのは「客観的」な「データドリブン(データにもとづいて経営判断や事業のアクションをとっていくこと)」な示唆なのですから。

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