だが、そういった中に一人、「すごかった。ひどかった」としか言わない若者がいた。「だから、また行く」のだという。その訥々(とつとつ)とした言葉に「共苦」を感じた。この若者であれば、苦悩する人々に拒絶されても、対話的に消化していくことができるだろうと思ったものである。
もちろん、これほど極限まで突き詰める必要はない。自分なりの善意や正義感で、それが相手に迷惑と受け止められようとも、行動することが必要だということである。当然、行動すれば衝突する可能性もある。だが、衝突するからこそ、対話の必要性も生じるのだ。
対話とは、個々の「違い」を隔離して、平穏無事に共存する方法ではない。「違い」を衝突させ、混沌とした状況に苦しみながら、共存の道を模索する方法なのである。
日本教育大学院大学客員教授■1966年生まれ。早大法学部卒、外務省入省。在フィンランド大使館に8年間勤務し退官。英、仏、中国、フィンランド、スウェーデン、エストニア語に堪能。日本やフィンランドなど各国の教科書制作に携わる。近著は『不都合な相手と話す技術』(小社刊)。(写真:吉野純治)
(週刊東洋経済2011年10月1日号)
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