高円寺にだけ存在する「なんか自由な感じ」の正体 若者だけでなく中年にも居場所がある安心感

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本屋で店番をしているとき以外は、相変わらず自由というか、制限がなさすぎてだらしのない毎日を過ごしている。

適当な時間に起きて、適当なものを食べて、洗濯をして、ゴミを出す。限りある資源をただ食い潰す、その繰り返し。

少しずつ自分の家事がだんだん雑になっていることにうっすらと気づいているけれど、見ないふりをしている。例えば食事の質や、洗濯や掃除の頻度、丁寧さなど。この雑さが30倍くらいの速度で進行したら、1年後くらいにはゴミ屋敷の独居老人になるのだろう、という実感がある。

なんだか少しずつ、何かが詰んできている気がしなくはない。

この令和の世の中は、もう自分みたいな生き方が通用する時代ではないんじゃないだろうか、ということをときどき思う。

もともと自分は2007年頃に「できるだけ働かずに生きていきたい」みたいな内容をブログに書くというところから物書きを始めた。当時はそういう意見がある程度支持を集めることができたのだけど、今同じようなことを書いたとしたら、「人に迷惑をかけずきちんとしろ」と白い目で見られて終わりなんじゃないだろうか。

昔よりも今のほうが、ちゃんとお金を稼がなければならない、という空気が強いように思う。ゼロ年代の頃は不景気が続いているなどと言いながらも、まだ社会全体に余力があったのかもしれない。今は、格差社会化や高齢化が進んだせいか、役に立たないものを面白がる余裕がなくなってしまった。そんな時代の空気の中で、自分の存在が少しずつ時代遅れになってきているのを感じる。今まではなんとかごまかしながらやってこられたけど、この先はかなり怪しい。

高円寺では「時代遅れ」がいまだ現役

しかし、高円寺の街を見ていると、もう時代遅れのものが依然として現役で残り続けている、ということはよくあるな、とも思う。

再開発も少しずつ行われてはいるけれど、高円寺のほとんどはまだ狭い路地が入り組んだごちゃごちゃした街並みが残っていて、昭和の頃からあるような古い店がたくさん立ち並んでいる。こういう猥雑さこそが高円寺だと感じる。

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