松下、YKK、大震災 街の電器屋は逆境で育つ--ケーズホールディングス会長 加藤修一《中》
当時は量販店が増え、安売りが広がり始めていた。街の電器屋は影響を受けないわけがない。加藤が入社したころにはナショナルショップから離脱し、複数メーカーを取り扱う「混売店」へ転向していた。
そして父は量販店への転換を決める。ある日、顧客から電話がかかってきて「蛍光灯を持ってきてくれ」と言われると、父は「これからはお店に買いに来てください」と応対した。その姿に、「これまで積み重ねてきた顧客を全部捨てる覚悟で、商売替えを決断した親父はすごい」と尊敬のまなざしで見つめた。
水戸市内に2店目を出店した頃、ガリバーがやってきた。「流通革命」で黄金期を築いていたダイエーだ。進出する1年前、父は加藤を連れて東京へ向かった。ダイエーの店を見て回り、その安さに息を飲んだ。パイオニアのオーディオが2割引き? 問屋で仕入れると1割引きでも原価ギリギリなのに、まるで勝負にならない。
でも、戦うことを決めた。問屋を通さずに、メーカーと直接取引を交渉。あの手この手で価格は互角になった。それでも客は、街中のダイエーへと流れていく。
そこで考えたのが、ダイエーへ通じる街道沿いに大型店を出店することだった。「水戸の秋葉原」とデカデカと看板を掲げた。すると予想もしなかったことが起きる。ダイエーはびくともしなかったが、周囲の電器屋がパタパタと潰れ始めたのだ。
加藤は仕事に夢中だった。忙しい父に代わり、面白がってチラシを作ると、それきり父はその仕事をやらなくなる。仕入れに首を突っ込むと、また父はやらない。毎晩11時ごろまで残業を続けていた。
35歳のとき、父に「明日からお前が社長をやれ」と告げられた。すでに店舗は9店まで拡大し、特に気負うこともなく引き受けた。