藤原道長「我が世の春」支えた露骨な"脱税ほう助" 改革を目指した菅原道真は失脚の憂き目に

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しかし、その直後に無実の罪を着せられ、昌泰4(901)年、大宰権師(大宰府の副指令長官)に左遷されてしまいました。その後、名誉を回復することなく、京都に帰ることもないまま、大宰府で死んでしまうのです。

菅原道真に濡れ衣を着せた藤原時平やその関係者が次々に不審な死を遂げたので、一時は「道真の祟り」と言われ、朝廷はパニックに陥ります。学問の神様として名高い「天満宮」は、菅原道真の霊を慰めるために建てられたものです。

菅原道真の失脚は、古代史の謎の1つにもなっています。菅原道真は貴族の中では決して名門ではなかったので、藤原氏など他の名門貴族に嫉妬されて失脚したというのが、もっとも一般的な見方です。もちろん、それも要因の1つでしょう。

ただ、当時、菅原道真は「首相クラス」です。しかも、宇多上皇という超強力な後ろ盾も持っていました。簡単に首を切ったり、左遷したりできるものではありません。ちょっと嫉妬されたくらいで、失脚してしまうことはないはずです。では、なぜこのようなことが起きたのかというと、「農民・役人・貴族の脱税スキーム」に手を入れてしまったからです。

菅原道真は、「寛平(かんぴょう)の改革」と呼ばれている国制改革を指揮していました。寛平の改革では、「農民・役人・貴族の脱税スキーム」を止めるために、京都の有力貴族と悪徳国司、富裕農民との関係を絶ち切り、清廉な国司による適正な徴税を復活させようとしたのです。

この改革を切望していたのは、宇多上皇でした。宇多上皇は当時すでに天皇を退位して上皇となっていましたが、まだ国政に影響力を持っており、改革の実行責任者として菅原道真を指名したのです。

この悪弊を行っていたのは、名門の貴族たちです。菅原道真は、貴族としては名門ではないので、改革実行者としてはうってつけでもありました。だからこそ、宇多上皇から改革担当者として指名されたのです。

もちろん、この改革に対して名門貴族たちは反発します。彼らは菅原道真が右大臣に就任した途端に結託し、宇多上皇の隙を見て、道真を追い落としてしまったのです。

「既得権化」していく国司の中間搾取

平安時代になると、国司は一定の徴税分だけを中央に送り、残った分は着服するようになっていきました。つまり、国司による中間搾取が多くなったのです。農民たちは朝廷に訴え出たり、国司を襲撃するようなことも頻繁に起きました。

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