藤原道長「我が世の春」支えた露骨な"脱税ほう助" 改革を目指した菅原道真は失脚の憂き目に

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朝廷の方も、「荘園の拡大」にただ手をこまねいていたわけではありません。たびたび「荘園整理令」を出し、これ以上の荘園の増殖を防ごうとしました。「荘園整理令」というのは、不正によって荘園化された農地を没収してしまう命令のことです。

最初に荘園整理令が出されたのは、延喜2(902)年のことです。「延喜の荘園整理令」では、民が田地を寺社や貴族に勝手に寄進することを禁止し、土地の由来がはっきりしない荘園は整理されました。

また今後、荘園を増やすときには、国司の許可が必要ということになりました。

「延喜の荘園整理令」以来、ほぼ天皇の代が変わるごとに「荘園整理令」が出されました。しかし、班田収授システムの崩壊と荘園の増殖は止めることができませんでした。

(出所:『脱税の日本史』より)

※外部配信先では図表を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください

脱税の「取り締まり」で失脚した菅原道真

荘園が拡大して朝廷の財源が減るのは、徴税責任者である国司の腐敗が大きな要因でした。朝廷もこの弊害を認識し、たびたび国司の改善策を打ち出しました。たとえば、天長元(824)年には次のような法令が出されています。

・観察使を派遣し国司の業務を監視させる

・優秀な国司は複数の国を兼任させる

・国司は任期中に1、2度入京し、天皇に業務報告を行う

このような朝廷の努力にもかかわらず、国司の腐敗は改まりませんでした。国司は有力貴族が後ろ盾になっているので、簡単にはつぶすことができなかったのです。

国司の腐敗をなくそうとして、逆に悲劇の最期を遂げたのが、かの菅原道真です。

菅原道真は、貴族としては名門の出ではありませんでしたが、230年間でわずか65人しか合格者が出なかったという、当時の最高国家試験である文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に合格するなど秀才ぶりを発揮し、讃岐守(現在の香川県知事にあたる)などの重要ポストに就いて、当時の宇多天皇の信頼を得ました。そして、昌泰2(899)年には右大臣、現在の首相のような地位にまで上り詰めます。

次ページしかし、その直後に無実の罪を着せられて…
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