人望ない「石田三成」それでも"親友に慕われた"訳 皮膚病を患う盟友の大谷吉継との温かな逸話

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しかし、三成は何も自分の思いを表現すること自体が苦手だったわけではない。鳥の鷹が大好きであり、上杉景勝に自分の鷹を献上したときには、こんな手紙を書いた。

「私の秘蔵のタカでございます。アオサギを捕獲するタカということで他所からいただいたものですが、ガンにばかり興味を持ち、私のもとでアオサギをとることはありませんでした。この春、私のところではガンを20羽ほどとりました……」

手紙はまだまだ続き、ずっとタカについて語っている。もしかしたら、そんなオタク気質も、清正ら「武断派」とは合わなかったのかも……。どこか憎めない三成だった。

親友が生涯忘れなかった三成のやさしさ

三成は親友に「やめておけ」といわれながらも、家康を敵に回して挙兵することを決意する。関ヶ原の戦いの始まりである。

そして三成がいざ戦うことを決めると、結局、親友の吉継も三成とともに、西軍として戦うことを決めている。

あれだけ止めていたのになぜ……と思うが、吉継には、忘れられない三成との思い出があった。

それは、大坂城内山里丸で茶会が催されたときのことだ。茶の回し飲みが始まったが、このとき、吉継は皮膚の病を患っていた。

そして、吉継のところに茶碗が回ってきたとき、吉継の皮膚から汁が一滴ぽたりと茶碗に落ちた。列席していた前田利家らの大名たちは、思わず動揺したという。

しかし、そんななか、三成はその茶碗に手を出して、一気に飲み干してしまったという。吉継に恥をかかせないように、という三成の配慮だった。
吉継は、そんな三成の友情に心を打たれて、三成が決めたならば、どこまでもついていくことを決意したようだ。

真山知幸 石田三成
©メイ ボランチ

盟友の吉継も味方してくれた関ヶ原の戦いだったが、数時間であっさりと決着が着き、東軍の勝利に終わる。

だが、福島正則のように、東軍率いる家康側についたことを一生後悔した人物もなかにはいる。家康が関ヶ原の戦いのあと、豊臣家をないがしろにして、自ら将軍となったからだ。

そんな家康の天下取りの意図にいち早く気づき、兵を挙げて立ちはだかったのが、三成だった。

しかし三成は敗れて捕らえられ、処刑されることとなった。処刑の直前に白湯を希望するが、刑場にはなかったため、警護の兵が「柿ならあるぞ」というと、三成はこう言って拒んだ。

「柿には胆の毒があるゆえに食さぬ」

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