亡き娘の部屋に父が見つけた、悲しみ絶えぬ詩歌 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・葵⑧

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「あなたがお見捨てにはなるはずのない若君もお残りなのですから、何かのついでにお立ち寄りくださるだろうと自分をなぐさめてはいるのですが、考えの足りない女房たちは、今日を限りにあなたがお捨てになる故郷だと思いこんで、亡き人との永遠の別れより、親しくお仕えしてきた年月がすっかりおしまいになるのではないかと嘆くのも無理からぬこと。ゆっくりと我が家にいてくださることはありませんでしたが、それでもいつかは、とみな虚しくも期待していたのですから……。なんと心細い夕べでしょうか」と左大臣は言う。

「そんなふうに嘆くのは本当に考えが足りませんよ。おっしゃる通り、何があろうと私を信じてくれるだろうとのんびりかまえて、無沙汰をしてしまうこともありました。けれどあの人がもういない今、どうしてそんなにのんきなことができましょう。私が見捨てるはずもないことは今にわかるはずです」

と言い、光君は邸を後にする。それを見送ってから、左大臣は光君と葵の上の部屋に入った。部屋の飾りつけをはじめ、何ひとつかつてと変わらないのに、蟬(せみ)の抜け殻のように虚しく見えた。

御帳の前に、硯(すずり)などが散らばっている。光君の捨てた手習いの反故(ほご)を拾い上げ、涙を絞り出すようにして眺めている左大臣を見て、若い女房たちは悲しみながらも、ついほほえんでしまう。心打たれるような古人の詩歌が書かれているかと思えば、漢詩(からうた)も和歌もあり、草仮名や楷書や、さらにさまざまな目新しい書体で書かれている。

長恨歌の一句が書いてあるそばに

「なんてみごとな字だろう」と左大臣は空を仰いでため息をつく。これからは光君を他家の人としてつきあわねばならないのが残念なのでしょう。「旧(ふる)き枕故(ふる)き衾(ふすま)、誰とともにか」と長恨歌(ちょうごんか)の一句が書いてあるそばに、

なき魂(たま)ぞいとど悲しき寝し床(とこ)のあくがれがたき心ならひに
(亡き人とともに寝たこの床を、いつも離れがたく思っていた。この床を離れていったその人のたましいはどんなにつらいことだろうかと思うと、悲しくてならない)

とある。また、「霜華(しものはな)白し」とこれも長恨歌の引用の近くに、

君なくて塵(ちり)つもりぬるとこなつの露うち払ひいく夜(よ)寝(ね)ぬらむ
(あなたがいなくなって、塵も積もった床に、常夏(とこなつ)の露──涙を払いながら、幾夜ひとりで眠っただろう)

と書いてある。先日、文とともに母宮に送った時に手折(たお)った花なのだろう、常夏(撫子(なでしこ))が枯れて、反故の中に落ちている。左大臣はそれを母宮に見せて、泣いた。

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