道長の甥「藤原隆家」天皇に放った"驚愕の一言" いったい何があったのか?道長との逸話も紹介
実はこの隆家、従者が花山法皇を弓で射た事件で連座。隆家は出雲(島根県)権守に左遷となったものの、病などを理由に但馬国(兵庫県北部)にとどまった、と『大鏡』には記されています。
兄・伊周が赦免されると、隆家も許されて京に戻りました。隆家は、兵部卿や正二位の前中納言に就き、政界復帰の道を歩みます。このときの隆家を『大鏡』では、「とても才略のある人」だと世間から思われていたと書いています。冒頭で書かれていた「性悪者・ろくでなし」とは正反対な印象です。
兄・伊周の帰京後は、なかなか振るいませんでしたが、先に述べたように着実に復帰の道を歩み、1019年には刀伊(女真族、満洲族)の侵攻を九州で撃退するなど、活躍しています。
挫折を経ながらも、そうした活躍をした隆家を、人々は「いみじうたまひしおはす」(とても才略がある)と感じたのでしょう。
隆家に対する、道長からのある告白
『大鏡』には、隆家と藤原道長の逸話も書かれています。
それは道長の賀茂詣でに、隆家が供をしたときのことでした。隆家は、遠慮しているのか、道長の遥か後ろに下がって、供をしていたようです。
それを気の毒に思った道長が、隆家を自分の車に乗せてやり、道中でさまざまな話をします。
その会話の中で道長は、伊周と隆家配流の一件に自分は関わっていないと弁明します。
「配流のことは、私が差配したように世間では言っている。そなたも、そう思っていたことであろう。しかし、そうではないのだ。宣旨(天皇の命令)にないことを、私が一言でも付け加えていたならば、今日こうして、先祖のお社に参詣することができるだろうか」と道長は主張したそうです。
隆家は道長のその姿に、顔を上げられず、とても苦しい思いをしたといいます。
『大鏡』は、道長がそのように言ったのも「この殿」(隆家)だったからだと記します。「伊周にはそのようなことは言わない」とも書いています。
多くの人の注目を浴びる中で、隆家を自らの車に乗せ、配流の一件に関する自身の不関与を弁明する道長の行為は、隆家の不満を和らげる効果があったことでしょう。また人々に道長の器の大きさを見せつける役割も果たしたことでしょう(なお、この逸話は虚構だとする見解もあります)。
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