声のため去勢まで…歌手たちの知られざる悲劇 「オペラ大図鑑」でたどるオペラの壮大な歴史

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とはいえ、ディーヴァ中毒が蔓延するのはオペラ愛好家のあいだでのこと。彼らはお気に入りの歌手を追って世界中に出かけ、カーテンコールでは花束を投げ、恋人やペット、髪型や何を食べているかなど、私生活の些細な情報も集めている。トップに君臨するディーヴァ・アッソールタ(絶対的ディーヴァ)ともなると、さらなる異名をも持つ。20世紀のギリシア系アメリカ人ソプラノ歌手マリア・カラスは「ラ・ディヴィーナ」(神聖なるもの)、ライバルのレナータ・テバルディは「ラ・レジーナ」(女王)と呼ばれた。

トップ歌手たちは気分屋だし要求も厳しい。気まぐれやナルシスティックで有名なこともある。だが、それが許される存在なのだ。その存在だけでオペラのチケットは完売するのだから。ひどく重い衣装や、頭がムズムズするカツラ、不格好な舞台装置、奇妙な特殊効果とともに、こうした歌手たちは重い商業的責任を担っている。ヴェネツィアでのオペラハウスの創世期以来、彼らは法外な出演料を要求してきた。今でも、公演の最初の休憩時間に楽屋で現金払いのギャラを受け取ることも多い。

カストラート

オペラ大図鑑
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ディーヴァ伝説はオペラのカストラートまで遡ることができる。カストラートの声は教会の聖歌隊の音楽から発展したものだが、そのテクニックはイタリアの「ベルカント」唱法の伝統を通じてその後の時代の歌手へと受け継がれた。カストラートはオペラ界最初のスターで、その後に続くディーヴァたちのルールを確立した。

なかには特別扱いを受けるカストラートもいて、それは声楽の訓練から始まった。オペラがこの世に現れる前から、イタリアの音楽院で教育を受ける将来有望な少年歌手は、声をよくするという名目で他のクラスメートに比べて栄養のある食事を与えられ、居心地のいい部屋を提供されていた。オペラが生まれてから200年間、ローマ・カトリック教皇領では女性が教会や公開の場で歌うことが禁じられていたため、カストラートは非常に貴重な存在だった。

危険を伴うだけでなく、時には死をもたらす去勢(カストレーション)では、陰茎の切除はなかったが精管の切断と睾丸の除去が行われた。公式に禁止されていたにもかかわらず、去勢は中世からずっと行われてきた。輝かしい高音を備えた男声を教会の聖歌隊に供給するためだ。17世紀にオペラが生まれると、カストラートはすぐに男性と女性の役を両方歌うことができた。人気の高いカストラートはあらゆる場所や地域でファンを驚嘆させた。

とくに有名なのが1720年にナポリでデビューしたカルロ・ブロスキだ。ファリネッリの名で活躍し、ヨーロッパ各地のオペラハウスや宮廷でカルト的な人気を得た。さらに18世紀に活躍したもう一人のカストラート、ルイージ・マルケージには非常に多くのファンがいたため、オペラハウスは彼の途方もない要求を受け入れざるを得なかった。例えば、登場する予定のない場面で、羽飾りをつけた兜をかぶり馬に乗って登場、本人が歌いたいアリアを歌う、という具合だった。

カストラートはまた、しばしば激しい性格を持つ点でもディーヴァの祖先だった。18世紀にカッファレッリの名で知られたガエターノ・マヨラーノは聴衆を魅了したが、リハーサルをさぼり、気まぐれに出演をキャンセルし、出演中に大声で他の歌手を批判し、仲間のアーティストに暴力を振るうこともあった。

アラン・ライディング

『ニューヨーク・タイムズ』紙の元ヨーロッパ芸術特派員。長年のオペラ愛好家で、数多くの著書がある。

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加藤 浩子(監修)

オペラ評論、音楽物書き。著書に『ようこそオペラ!』『オペラでわかるヨーロッパ史』『カラー版 音楽で楽しむ名画』『バッハ』『16人16曲でわかるオペラの歴史』等著書多数。

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