「敵なし」ナリタブライアン1994年皐月賞の舞台裏 衝撃の三冠達成から30年、関係者が語ったこと

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

4月18日には、馬主の内村正則が天皇賞・秋を最後に、翌年から種牡馬入りすることを正式に表明した。さらに4月16日に春の天皇賞連覇を目指していたライスシャワーの右前肢骨折が発表された。

これはすなわち、1994年春のGⅠ戦線は、ナリタブライアンとビワハヤヒデに託されたことを意味していた。

ナリタブライアンは、トウカイテイオーの骨折が判明した14日、角馬場とウッドチップコースで体をほぐしてから、予定どおり決戦の地・中山競馬場へ向かった。

翌4月15日には、午前7時に中山競馬場の芝コースに姿を現した。キャンターへ移ると、きっちり仕上がった柔らかみのある馬体が躍動する。中山競馬場へ来るのは3度目とあって、堂々たる落ち着きを見せていた。

手綱を取った村田光雄は「コースを見せておけば馬が安心すると思って本馬場に入れました。芝のはげたところを気にするところがあったが、心配ない」と語る。この日も追い切り同様、シャドーロールを装着していなかったが、「レースでは着ける予定」とも話した。

皐月賞の枠順は1枠1番

その日に発表された皐月賞の枠順で、ナリタブライアンは最内の1枠1番に決まった。翌日のサンケイスポーツは1面で枠順確定を伝え、「皐月フィーバー 1番枠 1人気、1冠だ」という大きな見出しが目を引いた。

皐月賞前日の朝、ナリタブライアン陣営と報道陣との間で軋轢(あつれき)が生じた。

村田光雄が取材に応じないというのだ。

調教師の大久保正陽は不在。主戦の南井克巳は阪神で騎乗。この日のナリタブライアンの様子は村田に聞くしかなかったので、報道陣が反発した。

皐月賞出走馬の前日追いが終わって出張厩舎に行くと、報道陣がナリタブライアンのいる馬房から少し離れた場所で待機していた。厩舎の扉は閉められ、中の様子はうかがえない。

村田と最も親しい大阪所属のサンケイスポーツのベテラン記者が、2階で休養している村田を呼び出すが、村田は頑なに取材に応じなかった。一触即発のムードが漂ったが、JRAの広報を通じてコメントを出すことで報道陣はしぶしぶ妥協した。コメントは次のとおりだった。

「ひとことで言えば調子は変わりない」

出張厩舎のあまりにもピリピリした雰囲気にナリタブライアンに異変が生じたのではないかと勘ぐる記者もいたが、そうではなかった。村田は中山競馬場で単独で取材に対応しなければならないことにナーバスとなり、本番前日にとうとう気持ちが切れてしまったのだった。

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事